改新の詔によって統一国家への改革が始まった頃、朝鮮半島では百済が滅亡の危機に陥っていました。
友好国である百済救済の為、日本は大帝国である唐との戦いに乗り出す事になります。
難波の宮

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改新の詔の第2条で、首都の設置が明言されました。
これにより首都は難波の宮(大阪府)に置かれ、また機内(首都圏)を定められます。
薄葬令

646年、孝徳天皇は『薄葬令』発し、次のように命じました。
「今我が人民が疲弊しているのはむやみに豪華な墓を建造するからである。墓は立派でなくていい。」
この詔により、それまで豪族が自由に築いていた墓の建造は厳しく規制されることになります。
身分に応じて墓の規模が定められたほか、殯や殉死も禁止されました。
これにより、古墳時代から続いた巨大な前方後円墳の築造は終焉を迎え、日本の葬制は大きな転換期を迎えることになったのです。
殯(もがり)とは、古代日本で行われていた儀式の一つで、遺体をすぐに埋葬せず、一定期間安置して故人を弔う風習のことです。現代の「お通夜」は、この殯の風習の名残とも考えられています。
斉明天皇の即位
孝徳天皇と中大兄皇子の対立

653年、政治上の対立が深まると、中大兄皇子は孝徳天皇に飛鳥へ帰る許しを願い出ますが、その願いは聞き入れられませんでした。
しかし、中大兄皇子はこれを押し切り、一族を率いて飛鳥へ帰ります。さらに、多くの群臣も中大兄皇子に従い、飛鳥へ移りました。
一方、取り残された孝徳天皇は、その寂しさから病に伏したとも伝えられています。
そして翌654年、孝徳天皇は崩御しました。
この知らせを受けた中大兄皇子や群臣は難波宮へ戻り、天皇の最期を看取ったと伝えられています。
皇極上皇の重祚

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孝徳天皇の崩御後の655年、中大兄皇子の意向により、皇極上皇は再び皇位に就くこととなりました。
こうして、第37代:斉明天皇が誕生します。
一度退位した天皇が再び即位することを『重祚』といい、斉明天皇は日本史上初めての重祚の例となりました。
皇極天皇は日本で初めて自らの意思で皇位を譲る譲位を行った天皇でもあります。
そして、その後に重祚も果たしたことで、日本史上初めて譲位と重祚の両方を経験した天皇となりました。
その後、譲位や重祚は後の時代にも行われるようになり、日本の皇位継承のあり方に大きな影響を与えることになったのです。
百済の役
百済の滅亡
朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が長年にわたって勢力を争いながら並立していました。
しかし、660年、その均衡は大きく崩れます。
新羅が唐と結び、百済への侵攻を開始したのです。
当時の百済は、内政の腐敗によって国力が衰えていました。そのため、新羅・唐の連合軍に対抗することができず、ついに降伏して滅亡しました。
中大兄皇子の決断
唐は百済を滅ぼした勢いのまま、長年対立してきた高句麗への侵攻を開始しました。
一方、百済の遺臣たちはその隙を突いて反乱を起こし、抵抗運動を開始します。
そして、大和へ人質として送られていた百済王子の帰国と、唐と闘うための援軍派遣を日本へ要請したのです。
百済からの要請を受けた中大兄皇子は、大きな決断を迫られました。
百済は古くからの友好国であるだけでなく、大和が朝鮮半島に影響力を保つうえで欠かせない存在でした。
しかし、その要請に応えることは、当時東アジア最大の強国であった唐を敵に回すことを意味します。
友好国を見捨てるべきか、それとも唐との戦いに挑むべきか――。
苦悩の末、中大兄皇子が下した決断は、百済救援と唐との対決でした。
白村江の戦い
斉明天皇の崩御
百済との戦争が決定した事により、斉明天皇は自ら軍を率いて九州に布陣します。
天皇自らが出陣するのは神功皇后以来であり、百済へ送った兵士は2万7000人を数えます。
百済の救済はこれ程までに国の威信をかけた大遠征でした。
しかしこの時斉明天皇は病のため崩御となってしまいます。
皇太子であった中大兄皇子はすぐには皇位を継がずに政務を引き継ぎ、新たに司令官を任命して朝鮮半島へ派兵しました。
白村江

朝鮮半島に上陸した大和軍は、百済復興軍と連合し、百済南部の奪還に成功するなど一定の戦果を挙げました。
しかし、このときの百済復興軍は内紛を抱えており、十分な統率が取れているとはいえない状況でした。
この様な状況の中、663年、ついに白村江で唐・新羅連合軍との決戦を迎えます。
しかし、厳格な軍律と優れた戦術を備えた唐軍に対し、大和・百済連合軍には戦術と呼べるものがなく、戦いは一方的なものとなりました。
『日本書紀』によるとこの時の作戦は
「我等先を争はば、敵自づから退くべし(私たちが先を争って攻めれば敵は自ら引いていくでしょう)」
であったと記されており、有効な戦術を編み出せなかった事が分かります。
こうして大和・百済連合軍は壊滅的な敗北を喫し、百済復興の夢は潰えてしまい、同時に大和の朝鮮半島での権益は完全に失われる事になりました。
まとめ
改新の詔によって中央集権国家づくりが本格的に始まり、孝徳天皇と中大兄皇子の対立を経て、皇極上皇は再び即位して斉明天皇となり、日本史上初の重祚が実現しました。
一方、朝鮮半島では660年に百済が唐・新羅連合軍によって滅亡し、日本は古くからの友好国であった百済を救うため、強大な唐との戦いを決断します。
しかし、663年の白村江の戦いで大和・百済連合軍は壊滅的な敗北を喫し、百済復興は果たせませんでした。
この敗戦によって大和政権は朝鮮半島での権益を完全に失い、その後は国内防衛の強化と中央集権国家の整備をさらに進めていくことになります。
重要ポイント
✔薄葬令が出され巨大古墳の築造や殯・殉死が禁止されるなど、前方後円墳の建造が終了した。
✔皇極上皇は再び即位して斉明天皇となり、日本初の重祚を果たした。
✔663年、白村江の戦いで大和・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗し、百済復興は失敗した。




