隋が滅び新たに起こった唐帝国はこれまでの常識を覆すような超大国となります。
唐はユーラシア大陸の周辺国を次々と併合し、東アジア世界は混沌に包まれました。
そのような世界情勢に危機感を覚えた日本はいち早く中央集権の強力な国家を作り上げる為、
ついに大々的な改革、『大化の改新』に乗り出すのでした。
唐帝国の建国
領土拡張時の唐 Orange Wave – Japanese Wikipedia, [1] (File:China map.jpg), CC 表示-継承 3.0, リンクによる
西暦618年、隋の武将である李淵により隋は滅亡し新たに唐が建国されました。
李淵の後を継いだ太宗の時代になると、唐は急速に勢力を拡大します。
周辺諸国を次々と従えた唐は、やがて最大の領土拡張時は朝鮮半島から中央アジアへ跨るほどの、当時としては世界最大級の国家となり、その文化や制度は東アジア全体へ大きな影響を与えました。
日本も遣唐使を派遣して最先端の政治制度や文化を学び始めますが、一方で巨大国家・唐の誕生は、日本にとって大きな脅威でもあったのです。
蘇我氏の権勢
聖徳太子の死

政敵の物部氏を滅ぼし、天皇の外戚なる事で政治を操っていた蘇我氏の権勢は馬子の子である『蘇我蝦夷』の代になると、ますます強くなって行きます。
摂政として蘇我氏と共に国政を担った聖徳太子でしたが、621年惜しまれつつもこの世を去る事になりました。
そしてその後、推古天皇も崩御となると、その後を継ぐはずの皇太子であった聖徳太子が既に亡き人となっていた為、皇位継承の争いが始まってしまいます。
舒明天皇即位

舒明天皇:明治天皇聖徳奉讃会 – 『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
推古天皇の後継では二人の皇子に白羽の矢が立てられます。
一人は蘇我蝦夷の推す『田村皇子』
もう一人は聖徳太子の息子である『山背大兄王』でした。
どちらが皇位を継ぐかは各氏族でも派閥が分かれ大きな問題へ発展し
山背大兄王は人望も厚く継承に有利かと思われましたが、最終的には蘇我蝦夷の推薦する田村皇子が皇位を継承し、第34第:舒明天皇が誕生します。
蘇我氏が田村皇子を推薦した理由は、田村皇子は蘇我馬子の娘と結婚しており、既にその子である古人大兄皇子を得ていたからだと考えられます。
第一次遣唐使
舒明天皇の治世の中、西暦630に第一次遣唐使が派遣されました。
使節の大使には大和朝廷の外交官:犬上御田鍬が選ばれ、遣唐使は平安時代の838年までの200年間続く事になります。
その目的は唐の先進技術や文化を学ぶ事であり、多くの留学生が派遣されました。
唐との国交に置いても、隋の時代と同じく「日本は唐の冊封は受けない」という外交は貫き、日本と唐は主従関係ではない対等関係を守り通しました。
蘇我入鹿

舒明天皇が崩御となると、蘇我蝦夷はその皇后に皇位を継承させ、二人目の女帝である第35第:皇極天皇が誕生します。
これは舒明天皇の息子であり蘇我系でもある古人大兄皇子に皇位を継承し、蘇我氏の権力維持を図るために、皇子の母を皇極天皇として中継させた蝦夷の計略でした。
そして蝦夷は大臣の位を息子の蘇我入鹿へと譲り、いよいよ蘇我氏の権勢は頂点を極める事になりました。
山背大兄王の殺害

蘇我入鹿は古人大兄皇子に皇位を継がせ、蘇我氏の権力維持を図る計画を持っていました。
しかし古人大兄皇子の皇位継承に置いて邪魔となる存在がありました。それが聖徳太子の息子である山背大兄王です。
山背大兄王は人望も厚く、斑鳩に強い勢力を固めており、先に田村皇子と皇位を争った実績もあります。山背大兄王が皇位に就くことは蘇我氏の権力を揺るがしかねません。
危険を感じた入鹿は、643年に斑鳩の山背大兄王の宮に兵を送り襲撃します。
山背大兄王は何とか生駒山へ逃れ、兵を起こして入鹿と闘う事を部下に勧められますが
私が兵を起こして入鹿に対抗すれば必ず勝てる。だが自分の都合で戦を起こし民に迷惑は掛けられない。
と言い残し自決したと伝えられています。
蘇我入鹿の専横ぶりはここに極まり、これには父の蝦夷も激怒した程でした。
さらに入鹿は一族の墓を陵と呼ぶなど、蘇我家を天皇家と近い扱いにしていた為、皇位簒奪が疑われていました。
こうした中で朝廷内でも蘇我氏に対する不満が高まっていきます。
大化の改新
中大兄皇子

蘇我氏への不信が高まる中、644年に唐が高句麗への侵攻を開始したとの大ニュースが伝えられると政府の唐に対する危機感は一層高まります。
国内では蘇我氏が政治を欲しいままに操り、海の向こうでは唐が周辺国の併合を狙うなど、まさに内憂外患の時でしたが、ここで立ち上がったのが中大兄皇子でした。
中大兄皇子は学友であった中臣鎌足と共に、天皇を中心とした新たな政治体系を打ち立てる為、蘇我入鹿の打倒を企てます。
乙巳の変

乙巳の変 Gukei Sumiyoshi – Scroll painting from the Edo period., パブリック・ドメイン, リンクによる
入鹿打倒の計画は進み、西暦645年、ついにその日を迎えます。
この日飛鳥の宮中では高句麗、新羅、百済の使者が訪れ朝貢の儀式が執り行われる予定でした。
入鹿は用心深い性格で常に剣を帯びていたので、武具を外す儀式の最中が最も襲撃に適した時間だったのです。
儀式が始まると守衛に出入り口を固めさせ逃げ場を無くし、中大兄皇子と中臣鎌足は入鹿に切りかかりました。
皇極天皇は驚いて「何事か」と問いただしましたが、蘇我氏による皇位簒奪の嫌疑を伝えると静かに宮中の奥へ去っていったといいます。
入鹿の死を聞いた蘇我蝦夷は自宅にて自決。こうして蘇我氏の栄華は終わりを告げました。
この事件を乙巳の変と呼びます。
改新の詔
乙巳の変を成功させた中大兄皇子達は、すぐさま統一国家の為の新政府を樹立しました。
皇極天皇は弟に皇位を譲渡し、第36代:孝徳天皇が即位します。

孝徳天皇:明治天皇聖徳奉讃会 – 『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
そして中大兄皇子は皇太子となり、これまで一人だった大臣の権力を分散して新たに左右大臣や内臣などの官職を設けて朝廷内の政治を大々的に改革しました。
さらに日本初の元号【大化】を制定。
当時中国の皇帝にしか許されなかった元号の制定を行う事で、天皇の権威を示しました。
現在、元号の使用を続けている国は日本だけです。
そして翌646年、改新の詔を発します。
この詔によりこれまで豪族が各々所有していた土地や人民を天皇の所有するモノとする事で、本格的な中央集権政治がスタートする事になりました。
これを『公地公民』と呼びます。
日本の建国から古墳時代を通じて大和政権は豪族たちの連合政権でしたが、ここからは天皇を頂点とする統一国家として歩み始める事になるのです。
まとめ
19話では大化の改新を取り扱いました。
拡大していく唐の脅威に対抗する為、日本では天皇を中心とした統一国家を作り上げる必要がありました。
そこで、中大兄皇子と中臣鎌足は政治を独占している蘇我氏を排除する事に成功、翌年には改新の詔を出して唐の制度を参考にした本格的な中央集権国家つまり律令国家を目指します。
この辺りは明治時代に西洋列強の脅威に対抗するために数々の改革を起こした明治維新と非常によく似ています
重要ポイント
✔聖徳太子の死後、蘇我入鹿の権力が非常に高まる。
✔中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新に乗り出す。
✔改新の詔で公地公民を実現し律令国家を目指す。



