飛鳥時代の国家改革を経て、日本は国家としての体制を整えていきました。
そして710年、元明天皇は都を平城京へ移します。
巨大な都を中心として国家運営が行われるようになり、日本は新たな時代へと進んでいきました。
奈良時代のはじまりです。
元明天皇即位
第42代:文武天皇は、朝廷内での権力者であった藤原不比等の娘、宮子を夫人としていました。
そして二人の間に授けられたのが首皇子です。
藤原不比等は自らの孫にあたる首皇子を次の皇位に就かせる計画でしたが、西暦707年、文武天皇が文武天皇が病の為崩御となります。
この時首皇子はわずか7歳であり、皇位継承が難しいと判断され、皇子が成長するまで文武天皇の母親が即位する事になりました。
第43代:元明天皇の誕生です。
平城京遷都

飛鳥時代を経て、『律令』『元号』『国号』等の国家としての体裁を整えた我が国では本格的な律令制度が運営されて行く事になります。
律令国家の政治を運営するためには、多くの官人や役所を配置する為の、また朝廷の儀式を行う為の大規模な政治の中心地が必要となります。
こうした背景のもと、文武天皇の後を受けた元明天皇は、710年に現在の藤原京から新たな都である平城京への遷都しました。
平城京は唐の長安に習って造営された都城であり、天皇の住む宮殿や中央政府の役所が置かれ、貴族たちの邸宅や寺院が建ち並び、商業活動も行われました。
また、大陸から外国の文化も流れ着き
こうして平城京は、天皇を中心とする律令国家の政治・経済・文化の中心地となっていきます。
藤原不比等

そしてこの新たな律令国家の始まりにおいて権力を握っていたのが藤原不比等です。
大化の改新で功を上げた中臣鎌足は天智天皇から藤原姓を賜り、藤原鎌足と名乗ります。
その息子こそが藤原不比等でした。
持統天皇に仕えた藤原不比等は法に詳しく遺憾なくその才能を発揮させ、大宝律令や養老律令の編纂に大きく貢献し、朝廷内での存在感を増していきます。
さらに不比等は、皇室との婚姻関係を築くことで藤原氏の地位を高めて行く事になります。
娘の宮子は文武天皇の妃となり、二人の間に生まれた皇子が首皇子、すなわち後の聖武天皇です。
こうして藤原氏は、皇室との深い結びつきを持つようになりました。
元正天皇即位
715年、元明天皇は譲位を行います。
本命の首皇子はまだ年若かった為、中継ぎの為元明天皇の娘が皇位を継ぐ事となります。
第44代:元正天皇の誕生です。
記紀の完成
天武天皇の頃より編纂が始まっていた国史である『古事記』そして『日本書紀』がこの時代についに完成する事になります。
古事記の完成

平城京へ遷都した2年後の712年、『古事記』が完成します。
これは天武天皇の命令により、稗田阿礼が記憶していた神話や伝承などを太安万侶が文章としてまとめ、完成させた現存する我が国最古の歴史書となります。
その内容は、天地の始まりから神々の物語、そして歴代天皇の系譜や事績へと続いていきます。
『古事記』では、日本の神話や伝承が物語として描かれており、天皇による統治がどのような由来を持つのかを示す内容となっていました。
また、主に日本国内向けに書かれており、当時は現在のような「ひらがな」や「カタカナ」が成立していなかったため、漢字を使って日本語の音を表す方法も用いられました。
日本書紀

『古事記』の完成から8年後の720年、『日本書紀』が完成します。
『日本書紀』は舎人親王を中心とする官人たちによって編纂された歴史書です。
『古事記』とは異なり、全体が漢文で書かれ、中国の歴史書にも見られる「編年体」を採用しています。
つまり、出来事を年代順に並べながら日本の歴史を記録しているのです。
当時の日本は、唐や新羅など東アジア諸国との外交関係を持っていました。
そのため、日本という国家の成り立ちや歴史を記録し、対外的にも示すための歴史書が必要とされていたと考えられます。
二つの歴史書
こうして『古事記』と『日本書紀』という、後世の日本史を知るうえで極めて重要な二つの歴史書が成立しました。
この二つの歴史書は、同じ古代日本を扱いながらも、その性格や記述方法には違いがあります。
『古事記』は主に日本国内向けに書かれた歴史書であり、神話や伝承、天皇の系譜などを物語的に記述しているのに対し、
『日本書紀』は主に外国に向けて書かれたもので、当時の世界的フォーマットに則った形式で神代から歴代天皇の記録を書いた公式の歴史書としての性格を強く持っています。
養老律令

奈良時代の政治を語るうえでもう一つ重要なのが「律令」です。
718年、藤原不比等らによって「養老律令」の編纂が開始されました。(施行は758年)
養老律令は、それ以前に制定された大宝律令を修正・整理したものと考えられており、
その内容は大宝律令と大きく異なるものではなかったとされています。
これによって、律令国家としての政治制度がさらに整えられていきました。
しかし、律令によって国家の仕組みが整えられる一方、人口が増加すると別の問題が発生します。
それが「土地不足」です。
三世一身法

律令国家では、国が農民に田んぼや畑等の土地(口分田)を与えて耕作させる仕組みが整えられていました。
しかし人口が増加すると、支給するための土地が不足するようになります。
そこで政府は、新たな田地を開墾して農地を増やそうとしました。
722年、政府は「良田百万町歩」の開墾計画を立てます。
しかし、この計画はあまりにも大規模だったため、実行は困難でした。
そこで翌723年、新たに制定されたのが『三世一身法』です。
三世一身法では、新たに灌漑施設を造って開墾した場合、その土地を三世代まで、既存の灌漑施設を利用して開墾した場合には一代に限って、私有することを認めました。
政府は農民たちに開墾を促すことで、増加する人口に対応しようとしたのです。
しかし、この制度にも限界があり、後に土地制度そのものが大きく変化していくことになります。
地方の経営
この時代には東北の蝦夷、九州の隼人と呼ばれる人々が朝廷に従わず、度々反乱を起こしていました。
奈良時代にはこれらの平定も本格化していきます
東北の経営
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掬茶 – 秋田城の復元された外郭東門と築地塀:投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
少し時代は遡り、飛鳥時代の西暦658年、斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫が東北の蝦夷征伐の為遠征を始めました。
その後平定事業は引き継がれ、712年に出羽国(山形県から秋田県)が設置されました。
さらに724年には多賀城(宮城県)733年には秋田城(秋田県)が築かれ、その後の東北経営の拠点となってゆきます。
九州の経営
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大伴旅人:パブリック・ドメイン, リンク
一方九州では飛鳥時代に薩摩国が設置され、713年には大隅国が設置され、九州南部の拠点として機能しました。
そして720年に起こった隼人の反乱に対し、大伴旅人が派遣され見事にこれを鎮圧し、隼人の地域も次第に律令国家の支配下へ組み込まれていきました。
まとめ
奈良時代の幕開けは、言い換えると本格的な律令国家の幕開けの時代だと言えます。
710年の平城京遷都によって、日本の政治の中心は平城京へと移りこの時代が始まりました。
その後、『古事記』や『日本書紀』が完成し、養老律令も制定され国家の体制が整備されて行きます。
平城京を中心として発展する奈良時代。
しかし、その繁栄の裏側では、土地制度や農民の生活をめぐる新たな問題が生まれ始めていました。
重要ポイント
✔平城京に遷都
✔記紀の完成
✔藤原不比等による権力掌握


