日本史24話 【奈良時代②】 世界一の大仏

日本史

藤原不比等ふじわらのふひとの死後、奈良時代の朝廷では皇族勢力と藤原氏の対立が激しくなっていきます。

さらに疫病の発生などによって社会の混乱は続き、聖武天皇は仏教の力によって国家を守る「鎮護国家」を目指すようになりました。

そして我が国は全国に国分寺を建立し、巨大な盧舎那仏るしゃなぶつ、すなわち奈良の大仏を造立するという、前代未聞の国家的事業へと乗り出していくことになります。

不比等の死と聖武天皇

藤原不比等の死

長屋王

西暦720年、藤原不比等は、念願であった孫の首皇子おびとのみこの即位を見ることなく、この世を去ります。

彼はその優れた才能により、後の藤原時代の礎を築き上げただけでなく、我が国の律令化を主導した偉大なフィクサーだったと言えるでしょう。

そして不比等の死後、朝廷で大きな政治的影響力を持つようになったのが天武天皇の孫である長屋王ながやおうでした。

しかしこの長屋王は後に藤原不比等ふじわらのふひとの四人の息子である藤原四兄弟と対立し、悲惨な最期を迎えることになります。

聖武天皇即位

聖武天皇

724年、ついに文武もんむ天皇の頃から王位継承の本命であった首皇子おびとのみこが即位します。

第45代:聖武しょうむ天皇の誕生です。

これにより既に亡くなっているとは言え、藤原不比等ふじわらのふひとの孫が皇位に就いた事になり、藤原氏は天皇の外戚の地位を手に入れました。
かつて蘇我そが氏が行った方法と同じ方法で権力を握ったのです。

長屋王の変

長屋王と藤原氏の対立

藤原四兄弟

長屋王ながやおうは不比等の政治路線を継承し、律令体制の整備や蝦夷えみしの反乱鎮圧など見事に政権を運営していましたが、権力を手に入れたい藤原氏と徐々に対立していく事になります。

辛巳事件

聖武しょうむ天皇は藤原氏である自身の母に称号を与える勅を出しますが、長屋王ながやおうはこの勅は法令違反であると天皇に上奏しました。

その結果勅は修正されますが、この事件は長屋王と藤原氏との確執の一因となってしまいました。

光明子

聖武天皇は藤原不比等ふじわらのふひとの娘である光明子こうみょうしを皇后として迎えていました。

藤原氏にとって、光明子が皇后となり、その子が皇位を継承することは、藤原氏が天皇の外戚としてさらに大きな政治的影響力を持つことにつながります。

しかし当時、皇后には皇族出身者が立てられることが一般的でした。

そのため、皇族出身であり朝廷内でも大きな影響力を持っていた長屋王は、藤原氏にとって大きな存在となっていきます。

長屋王の変

こうした政治的対立が続く中、729年、長屋王ながやおうに対する密告事件が起こります。

729年に朝廷の官人から

という内容の密告が寄せられたのです。

この密告を受けて朝廷は兵を動員し、長屋王の邸宅を包囲しました。

長屋王は妻の吉備内親王や子どもたちとともに追い詰められ、最終的に自害することになりました。

これを「長屋王の変」と呼びます。

現在ではこの事件は藤原四兄弟の陰謀であり、長屋王は免罪であったとの見方が有力です。

天然痘の流行

こうして長屋王が失脚すると、藤原四兄弟は朝廷内で大きな政治的影響力を持つようになります。

しかしこの時日本で天然痘が大流行し、未曽有のパンデミックが発生します。

この天然痘により藤原四兄弟は病死、それだけでなく朝廷の高官の多くも病に倒れ、まさに国家的危機となりました。

当時、この天然痘の流行は長屋王ながやおうの怨霊による祟りではないかとも考えられました。

「無念を抱いて亡くなった人物が怨霊となり、災いをもたらす」という考え方は、古代から日本の政治や社会にたびたび登場する思想です。

藤原広嗣の乱

橘諸兄の政治

天然痘の流行により朝廷に出仕できる高官は限られてしまいます。

こうした中、右大臣に任じられ政権を任されたのが橘諸兄たちばなのもろえでした。

橘諸兄は、遣唐使として唐に渡り先進的な知識を学んだ吉備真備きびのまきびや、僧侶の玄昉げんぼうを重用しました。

諸兄はまず行政組織の見直しや、防人の停止などで農民の負担を軽減し、パンデミックによって疲弊した国力の回復に努めました。

藤原広嗣の乱

この橘諸兄たちばなのもろえの政治に待ったを掛けたのが藤原四兄弟の1人藤原宇合ふじわらのうまかいの子である藤原広嗣ふじわらのひろつぐでした。

740年、大宰府に赴任していた藤原広嗣は藤原氏に権力を取り戻す為、地方豪族出身で格式の低い吉備真備きびのまきびや僧侶である玄昉げんぼうが政治に関わっている事を批判し、2人を左遷するよう天皇に上奏を行います。

そして大宰府への赴任を左遷と感じていた藤原広嗣は、ついに挙兵する事になりました。

反乱の知らせを受けた朝廷は大野東人おおのあずまびとを大将軍とする約1万7千人の軍勢を派遣し、反乱の鎮圧にあたります。

戦闘は約2か月に及びましたが、朝廷軍が広嗣軍を破り、広嗣は逃亡した末に捕らえられて処刑されました。

この戦いを藤原広嗣の乱と言います。

乱の結果、彼に従った多くの者が罰せられ、飛鳥時代以来の大規模な内乱は収束する事になりました。

これほど大規模な反乱は政府にとって凄まじい衝撃であったと考えられます。

大仏の建立

国分寺建立の詔

東大寺 大仏殿(金堂)(2024年)
Mont Blank rich東大寺 大仏殿:投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

疫病の大流行や藤原広嗣の乱と言った政治の動揺と社会不安から、聖武しょうむ天皇と橘諸兄たちばなのもろえ玄昉げんぼうの勧めもあり、仏教の力によって国を守る鎮護国家を目指しました。

そして741年、聖武天皇は日本全国に国分寺と国分尼寺を建立する【国分寺建立の詔】を発しました。

各寺には七重塔を建立し、『金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょう』と『法華経ほけきょう』を安置することも命じられます。

これらの経典には、仏教によって国家や人々を守る思想が説かれていました。

つまり国分寺は、単なる地方の寺院ではなく、国家の安寧を祈るための寺院として位置づけられていたのです。

そして大仏が安置される事となる東大寺とうだいじは全国の国分寺の総本山とされました。

聖武天皇達は本気で仏教の力を持って国の混乱を救おうとしていたのです。

大仏造立の詔

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Mass Ave 975 – Taken by Mass Ave 975, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

聖武しょうむ天皇は、河内国の知識寺で盧舎那仏るしゃなぶつを拝したことをきっかけに、巨大な盧舎那仏を造立することを発願しました。

知識寺は貴族による建立ではなく一般の民衆が少ない私財を持ち寄って建立された寺院であり、これに感銘を受けた聖武天皇は日本人全員による力で大仏を建立する事を目指し【大仏造立の詔】を発しました。

このように聖武天皇は、国家の力だけに頼るのではなく、人々の信仰と協力によって大仏を造立しようとしました。

大仏造立は国家的な巨大事業である一方、人々の自発的な信仰心も重視された事業だったのです。

また、大仏造立には多くの人々が関わり、その中でも民間に人気のあった僧侶:行基は民衆の協力を集めるうえで大きな役割を果たしました。

こうして大仏造立の一大事業が始まります。

また聖武天皇はこの事業に際して伊勢神宮の天照大神あまてらすおおみかみに許可を求めました。

聖武天皇は日本の神も仏も敬う心を持っていたのでしょう。

墾田永年私財法

田畑

大仏建立の詔が発せられた743年、経済政策においても後の日本史を大きく変える画期的な法令が制定されました。

それが『墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう』です。

問題化していた土地不足に対し722年には三世一身法で対処していましたが、この方法には限界がありました。

そこで聖武天皇が新たに制定したのが墾田永年私財法です。

この法令によって、一定の条件のもとで自ら開墾した土地を永久に私有することが認められました。

これは、土地を国家が管理するという律令国家の原則に大きな変化をもたらすものです。

つまり公地公民の否定を意味し、土地の私有を認めたことでやがて律令国家の土地制度そのものを揺るがしていくことになるのです。

聖武天皇の出家

749年、聖武しょうむ天皇は出家の為に譲位を決行しました。

これにより第46代:孝謙こうけん天皇が誕生します。

天皇が出家し仏門に下る事は異例であり、聖武天皇が本気で鎮護国家を目指していた事が分かります。

大仏の完成

詔から大仏の建造は着々と進められ、749年には大仏の仏身の鋳造が完了しその後も大仏殿の建設などが進められます。

そして752年、ついに大仏開眼供養が行われました。

この儀式には、日本国内だけでなく朝鮮半島や唐、さらに仏教発祥の地であるインドからも僧侶や関係者が参加し、国際色豊かな盛大な式典となりました。

仏教が伝来してから約200年。

仏教の後進国だった我が国が国家の力を結集して巨大な大仏を完成させ、海外からも多くの人々を迎えて開眼供養を行ったことは、日本の文化が大きく発展したことを内外に示す出来事だったのです。

まとめ

藤原不比等の死後、長屋王の変や藤原四兄弟の死、天然痘の流行、藤原広嗣の乱など、奈良時代の朝廷では政治的・社会的な混乱が続きました。

こうした混乱の中、聖武天皇は仏教の力によって国家を安定させる「鎮護国家」を目指し、全国に国分寺を建立するとともに、巨大な盧舎那仏、すなわち奈良の大仏を造立しました。

752年に行われた大仏の開眼供養は、国家と仏教が結びついた奈良時代を象徴する一大事業となったのです。

重要ポイント

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