道鏡などによる寺院勢力の政治進出がは混乱をもたらし、これを良しとしない桓武天皇は平安京への遷都を行います。
平安時代のはじまりです。
しかし平安時代の幕開けは決して穏やかなモノではありませんでした。
長岡京遷都

781年に即位した第50代:桓武天皇は、奈良時代に政治へ大きな影響力を持った寺院勢力との関係を見直し政治を刷新することを目指して、平城京からの遷都を進めました
新たな都の候補となったのが山背国(京都府)に位置する長岡京です。
この地域は桂川などの河川に恵まれ、水陸交通の利便性が高い場所でした。
そして784年、代々天皇の暮らした都城である平城京から長岡京への遷都が行われました。
藤原種継暗殺事件
藤原種継

桓武天皇は、長岡京を新たな政治の中心とするため、藤原種継を長岡京造営の責任者に任命し、都の造営を進めました。
藤原種継は
天皇は種継に委任して政務は種継の意見を仰ぐ
と言われる程天皇から信頼されていていた優秀な政治家でした。
暗殺事件
しかし、785年、造営現場を監督していた種継が矢で射られしまう事件が発生します。
混乱の中、翌日に種継は命を落としてしまいました。
事件の捜査の結果、桓武天皇の皇太子であり、種継と不仲であったとされる早良親王や大伴氏の関与が疑われ、多くの人物が処罰されました。
早良親王は皇太子を廃され、流罪に処される事になります。
ただし、早良親王が本当に関与していたのかは未だ疑問が残っています。
早良親王の怨霊
早良親王の流罪
785年、藤原種継暗殺事件への関与を疑われた早良親王は、皇太子の地位を廃され、乙訓寺への幽閉に処されます。
親王は無実を訴えるために食を断ったとされ、淡路国へ配流される途中で亡くなる事になってしまいました。
早良親王の祟り
早良親王の死後、桓武天皇の周辺では皇族の死や病気などの不幸が相次ぎました。
朝廷ではこれを早良親王の祟りだと考えられました。
当時は、非業の死を遂げた人物の霊が災いをもたらすという考え方があり、早良親王も怨霊として恐れられる様になったのです。
平安京

藤原種継亡きあと、長岡京では造営が難航し、たび重なる水害や早良親王の怨霊への恐れ等が問題となっていました。
こうした状況の中で、道鏡の野望を阻止した和気清麻呂の建議もあって、桓武天皇は新たな都の造営を決定しました。
そして794年、長岡京から遷都した先こそが、後に『千年の都』と呼ばれる平安京です。
平安京は平城京と同じ大内裏を持つ都城として建造され、当時の政治の中心にふさわしい大規模な都として整備されました。
桓武天皇による平安京の造営には、律令国家の立て直しを進め、新たな政治の中心を築こうとする意図がありました。また、唐の都城を参考にした壮大な都市づくりは、当時の我が国が東アジアの先進的な制度や文化を取り入れようとしていたことを示しています。
平安京は、一時期の例外を除いては、明治時代に東京へ奠都するまでの約1100年間、天皇の本拠地として日本の中心であり続けました。
その約千年にわたる歴史は、現在の京都の街並みや文化にも大きな影響を残しています。
桓武天皇の政治
桓武天皇は農民に税負担が重くのしかかっている事を憂いて大幅な減税政策を推し進めました。
特に兵士としての徴兵がかなりの負担になっていた事から、徴兵対象を絞り大幅な軍縮路線をとりました。
この政策は健児の制と呼ばれており、少数精鋭の武芸に秀でた兵士を育成した事から後の武士の発生の一因になります。
隼人の統合

奈良時代の721年、大伴旅人らが南九州の隼人の反乱を鎮圧して以来、隼人たちの律令国家への組み込み努力は徐々に続けられて居ました
そして800年には薩摩国、大隅国でついに班田が実地され、以降隼人の反乱が起こる事はなく、九州南部でも律令体制が整えられる事になりました。
蝦夷との戦い
宝亀の乱
一方東北地方では、時代は少し遡り、光仁天皇期の780年、朝廷は未だ蝦夷の勢力が強い胆沢地方(岩手県)へ軍を派遣していました。
しかし、朝廷に友好的であり官位まで戴いていた蝦夷の伊治 呰麻呂が突如として反乱を起こします。
呰麻呂は朝廷軍の高官を次々と殺害し伊治城や多賀城を陥れ、朝廷に反乱の意思を示しました。
群臣の謀反や城作の喪失は朝廷による東北経営にとって致命的な打撃でした。
朝廷は軍を派遣して事態の収拾を図りましたが、その後も蝦夷との戦いは長期化し、東北地方では大規模な軍事行動が続くことになります。
巣伏の戦い

789年、桓武天皇は東北経営を立て直すため、東日本の兵士を動員し大規模な遠征軍を派遣しました。
その兵力は5万人とも言われており、朝廷が本気で東北の安定を目指した事が伺えます。
しかし遠征の先に待ち構えていたのは蝦夷の名将アテルイでした。
官軍は北上川を渡って進軍しましたが、アテルイの巧みな戦術によって部隊同士の連携を断たれ、巣伏村付近で大敗を喫しました。
朝廷軍には多数の死傷者や溺死者が出て、遠征は失敗に終わる事になります。
度重なる敗戦により東北の情勢は悪化するばかりでした。
征夷大将軍

この窮地を救ったのが797年に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂でした。
801年に大軍勢を率いて遠征を始めた坂上田村麻呂は、続々と反乱を平定していく快進撃をつづけ、ついに802年には蝦夷のアテルイは自ら降伏するに至りました。
アテルイの才を認めていた田村麻呂は、蝦夷の英雄であるアテルイを東北経営に協力させることが、今後の東北地方の統治に役立つと考え、アテルイの命を助けるよう嘆願を出しますが、朝廷の公家達は
彼らは野生の獣のような心を持っており、従ったり反叛したりを繰り返し、態度が定まりません。
今回は、たまたま朝廷の威光のおかげで、この凶悪な首領を捕らえることができました。
もし田村麻呂の要請通りに、彼らを元の奥地へと送り返してしまえば
それはまさに『虎を養って後患を残す(虎を飼い慣らそうとして、のちに災いをもたらす)』ということになってしまいます。
とアテルイの斬首を強行しました。
田村麻呂の助命嘆願は受け入れられず、蝦夷側の有力な指導者を失うことになってしまったのです。
その後、朝廷は802年に胆沢城、803年に志波城を造営し、東北地方における支配の拠点を北へと広げました。
田村麻呂らの努力により、蝦夷の反乱は収束の兆しを見せ始めたのです。
徳政論争
蝦夷の反乱がいったんの区切りがついた頃、我が国では財政難に陥っていました
長岡京と平安京の2つの都の造営で既にかなりの費用と労力を要していた時に、蝦夷征討が重なり財政はひっ迫状態にあったのです。
805年に桓武天皇が群臣に意見を求めた所、参議の藤原緒嗣は
当時の人々を苦しめているのは蝦夷征討を意味する「軍事」と、平安京の造営を意味する「造作」であり、この二つの事業を停止すれば民衆の負担を軽減できる
と主張しました。
同じく参議の菅野真道はこれに反対します。
ここで辞めればこれまで命を賭して働いた人々の努力が無駄になる
と言う主張でした。
2人の間に激論が交わされますが、最終的に桓武天皇は人民の疲労を考慮し、藤原緒嗣の意見を採用しました。
こうして、桓武天皇が進めてきた二大事業は大きな転換点を迎え、民衆の負担軽減と国家財政の立て直しが重視した方向に転換される事になりました。
この2人の激論を『徳政論争』と呼びます。
平安京の造営は中止されましたがこの時点で既に平安京はかなり巨大な都城として建造されており、都として十分な完成度を誇っていました。
藤原薬子の変
桓武天皇の崩御
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平城天皇:明治天皇聖徳奉讃会 – 『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
徳政相論によって平安京の造営と蝦夷征討が見直された翌年の806年、桓武天皇は崩御しました。
桓武天皇は、長岡京・平安京への遷都や蝦夷征討などを通じて、律令国家の立て直しを目指した偉大な天皇でした。
そしてその後を桓武天皇の皇子が継ぎ、第51代:平城天皇が誕生しました。
平城天皇は官制の整理など政治改革に取り組みましたが、病を患い、わずか3年で第52代:嵯峨天皇へ譲位となります。
平城上皇は旧都の平城京へ移り療養生活を送ります。
しかし上皇の側には再び平城上皇を政治の中心に立たせようと目論む女性、藤原薬子の存在がありました。
藤原薬子

810年になると平安京では嵯峨天皇が平城上皇が制定した制度を取り消した事から上皇は激怒し、上皇側と天皇側に亀裂が生じました。
この様な中、平城上皇の寵愛を一身に受けていたのが藤原種継の娘である藤原薬子でした。
薬子は平城上皇の側近の地位にあり、密かに平城上皇の重祚を計画していたのです。
そして薬子らが中心となり計画は進められ、上皇は都を平城京へ戻す詔勅を発しました。
蔵人所
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嵯峨天皇:不明(伝小野篁) – The Japanese book “kōshitsu no shihō 1 : kaiga I”, Mainichi Shimbun-sha, 1991 ISBN 4-620-80261-1, パブリック・ドメイン, リンクによる
これに驚いた嵯峨天皇は、詔勅を拒否する事を決定。
対立が激化する事を見越して、上皇側に情報が洩れる事を防ぐために藤原冬嗣、巨勢野足を長官として蔵人所を新設しました。
これは天皇の側近機関で天皇への様々な情報伝達などを担当し、天皇に最も近い機関として時には太政官を凌ぐ程の力を発揮しました。
さらに藤原薬子の兄である藤原仲成を捕らえて左遷し、薬子の官位を剝奪する対抗をはじめました。
上皇の挙兵

これに激怒した上皇はついに挙兵を決意します。
平城上皇は薬子とともに平城京を出発し、東国へ向かおうとしました。東国で兵力を集め、嵯峨天皇に対抗しようとしたと考えられています。
しかし上皇の挙兵を見抜いていた坂上田村麻呂は先んじて大和へ兵を動かしていました。
これを知った上皇はとても勝てる状況ではない察し、平城京へ引き返します。
こうして、平城上皇による政権奪回の試みは失敗に終わりました。
藤原仲成は射殺され、藤原薬子は自害。平城上皇は出家しました。
これによって嵯峨天皇の政治的地位が確立され朝廷内の対立は終息し、上皇と天皇の戦いは幕を閉じたのでした。
そしてこの事件で新設された蔵人所は次第に天皇の側近機関という性格を発揮する事になり、その長官である藤原冬嗣が権力を掌握し始めるのでした。
まとめ
桓武天皇は、長岡京・平安京への遷都を進めるとともに、律令国家の立て直しや蝦夷への支配拡大に取り組みました。
しかし、その過程は藤原種継暗殺事件や早良親王の死、東北地方への軍事遠征など、政治的など決して簡単なモノではありませんでした。
805年の徳政相論では、藤原緒嗣の意見が採用され、蝦夷征討と都の造営に関する政策が見直されることになります。
806年に桓武天皇が亡くなると、平城天皇、続いて嵯峨天皇が即位しました。やがて平城上皇と嵯峨天皇の対立が深まり、810年には薬子の変が発生します。
この政争は嵯峨天皇側の勝利に終わり、藤原冬嗣ら藤原北家が勢力を伸ばすきっかけの一つとなりました。
このように、平安時代の幕開けは、桓武天皇による国家改革と東北地方への支配拡大が進められる一方、皇位継承や朝廷内部の権力争いも続いた時代でした。
重要ポイント
✔長岡京での政治は藤原種継の暗殺を始めとする一連の出来事により頓挫した
✔平安京へ遷都された
✔蝦夷の反乱をほぼ鎮圧した

