聖武天皇の崩御後、奈良時代の政治は大きく揺れ動くことになります。
光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂が台頭し、やがて政権の頂点へと上り詰め政治は皇太后たちを中心に動き出します。
そして道鏡という僧侶の登場により皇統断絶の大事件が訪れます。
光明皇太后の政治
紫微中台

生涯を仏教による国家の安定に捧げ、大仏の完成を見届けた聖武天皇は756年に崩御しました。
この時すでに譲位を受けた孝謙天皇が即位していましたが、その治世において事実上権力を握っていたのが母である光明皇太后です。
光明皇太后は皇后時代、自身の生活や財産を管理するための家政機関を設置していました。
皇太后となった後、この機関は唐の制度に習い『紫微中台』と改称されます。
紫微中台は、光明皇太后の家政を担う機関でしたが、やがて政治にも大きな影響力を持つようになり、光明皇太后の政治的な権力を支える重要な機関となっていきます。
藤原仲麻呂

そして、この紫微中台の長官に任命されたのが藤原仲麻呂でした。
この頃、政権の中心にいた橘諸兄でしたが仲麻呂の台頭により次第に失脚していきます。
決定打となったのは
橘諸兄が朝廷を批判している
との密告でした。
光明皇太后がなだめる事で大事にはならなかったものの、この事件をきっかけに橘諸兄は辞職し政界を去る事になりました。
一方、藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ながら政治上の影響力を強め、やがて奈良時代後半の政局を動かす存在へと成長していくことになります。
光明皇太后の慈善活動

光明皇太后は、非常に熱心な仏教信者であり、聖武天皇に国分寺を創設するよう進言したのも彼女でした。
また、光明皇太后は仏教に基づく慈善活動にも力を入れ、写経事業や、疫病患者・貧困者のための施設を設けるなど、さまざまな福祉事業を進めています。
伝説によれば、光明皇太后が疫病患者のための浴室を設けた際、ある患者が「自分の膿を吸い出してほしい」と願い出た所、光明皇太后は戸惑うことなく自ら患者の膿を吸い出したといいます。
すると、その患者は自らが仏の化身であることを明かし、姿を消していったと伝えられています。
この説話は、光明皇太后の慈悲深さを象徴する話として、後世に語り継がれることになりました。
正倉院
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あずきごはん – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
さらに光明皇太后は、聖武天皇が崩御するとその遺愛品を東大寺に奉献しました。
これらの品々は東大寺の正倉に納められ、現在まで『正倉院宝物』として大切に受け継がれています。
およそ1300年前の品々が良好な保存状態で現代まで伝わっていることは、世界的に類を見みません。
こうした貴重な宝物が長い年月を経て現在まで伝わっている背景には、天皇の勅封など、歴代の朝廷や東大寺による厳重な管理と保存の積み重ねの成果と言えるでしょう。
橘奈良麻呂の乱
仲麻呂の専横
757年、孝謙天皇は皇太子を決める為、群臣を集めて会議を開きます。
群臣が様々な意見を述べる中、藤原仲麻呂は「天皇の意向が最も尊重されるべき」として孝謙天皇の意見を求めました。
その結果、皇太子には大炊王が選ばれましが、大炊王は以前から藤原仲麻呂の邸宅に住むなど、仲麻呂の庇護を受けていた人物でした。
このように皇太子の決定にも仲麻呂の意向が反映される程、彼の政治的な影響力は強大なものとなっていました。
橘奈良麻呂

無念に政界を去る事になった橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂のの専横ぶりに不満を抱きます。
そこで奈良麻呂は同じ様に不満を抱く群臣達を集めて仲麻呂を取り除こうと決意しました。
しかしこの計画は
奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している。
との密告により仲麻呂の知る所となってしまいました。
孝謙天皇と光明皇太后は、謀反を思いとどまるよう諸臣に呼びかけましたが、その後も密告が相次ぎ、藤原仲麻呂は兵を動かして関係者を次々と捕らえました。
孝謙天皇は
謀反の疑いがあるが、私はそのような知らせを信用しません
とハッキリ主張していましたが、取り調べの結果『仲麻呂を取り除き新帝を擁立する』という恐ろしいクーデターの計画があった事が判明しました。
全ての計画が無に帰した奈良麻呂は
東大寺の造営などの造営で民は疲弊している。だから反乱を起こそうとした
と全てを自白し、処罰されました。
この事件は『橘奈良麻呂の乱』と呼ばれ、藤原仲麻呂に反対する勢力が一掃される結果となりました。
淳仁天皇即位
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明治天皇聖徳奉讃会 – 『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
仲麻呂の政敵が排除された事により、彼の権勢はますます強大化していきました。
そして758年になると、皇太子に任命していた大炊王を天皇に即位させます。
第47代:淳仁天皇が誕生です。
さらに仲麻呂自らは太政大臣に就任し、名を恵美押勝と改めました。
恵美押勝は民への徭役(労働)を軽減し、新羅遠征を目的とした軍事力強化などの政策を打ち出しますが、まもなく彼の権勢も衰えていく事になります。
道鏡の出現
光明皇太后の崩御
760年、紫微中台にて政治を主導してきた光明皇太后が崩御となってしまいます。
そして皇太后の後ろ盾を失った恵美押勝も次第にその影響力を狭めていく事になりました。
この様な中、次の権力の座を狙っていたのは、いち僧侶である道鏡でした。
弓削道鏡

762年、孝謙上皇は病に伏してしまいますが、この時彼女の病の治療にあたったのが弓削氏出身の僧侶・弓削道鏡でした。
道鏡は弓削氏に属するいち僧侶でしたが、病気を癒した事から孝謙上皇に気に入られ、上皇のただならぬ寵愛を受ける事になりました。
淳仁天皇は上皇と道鏡の関係を諫めましたが、孝謙上皇は激怒し、天皇と上皇は次第に対立していきました。
そして孝謙上皇は
「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」
と宣言し、自ら国政を執り行うまでに事態は深刻化していきました。
藤原仲麻呂の乱

これに危機感を覚えたのは恵美押勝(藤原仲麻呂)でした。
押勝はもはや政治的な交渉では事態を解決できないと悟り、挙兵して道鏡を排除しようと計画します。
しかしこの計画を知った孝謙上皇は、吉備真備らに恵美押勝の討伐を命じました。
こうして、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の幕が切って落とされます。
恵美押勝は朝廷から反逆者として追討される立場でした。
そこで押勝は、皇族である氷上塩焼を擁立し、自らの軍勢を官軍として正当化しようとします。
しかし、戦いの結果、恵美押勝は孝謙上皇側の軍勢に敗れ、乱は鎮圧される事となりました。
この乱の後、淳仁天皇は廃され淡路島に流罪となり、さらに孝謙上皇が重祚して第48代:称徳天皇として即位しました。
そして道鏡も天皇から『太政大臣禅師』の位を授かり、僧侶としては異例の大出世を遂げる事になります。
宇佐八幡宮神託事件
道鏡の野望
ja:User:Sanjo – 宇佐八幡宮:投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
道鏡の出世は留まるところを知らず、ついに宗教上の最高権威と言われる『法王』の称号を手にします。
法王となった道鏡は仏教を優遇し寺院以外の土地開拓を禁ずるなど、仏教偏向の政治を展開しました。
そして地位と名誉を手に入れた道鏡の次の野望は、自らが皇位に就く事でした。
そして769年、道鏡の皇位継承をめぐる大事件が起こります。
発端となったのは、大宰主神の中臣習宜阿曽麻呂が朝廷に奏上した宇佐八幡神の神託でした。
習宜阿曽麻呂は道鏡に媚びるため、八幡神の神託を偽って、
『道鏡を皇位につけよ。そうすれば天下は安泰となる』
と奏上しました。
ここから、道鏡の皇位継承をめぐる問題が始まります。彼はこの神託を利用し皇位を簒奪する謀略を図ったのでした。
我が国では皇室の血統により皇統を保っていましたが、道鏡の天皇就任という皇統断絶の危機が訪れたのです。
和気清麻呂の英断

この神託を受けた称徳天皇は、この神託が事実かどうかを確認する為、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣します。
道鏡は和気清麻呂に自分に有利な神託を持ちかえれば官爵を与えると持ち掛け、清麻呂の買収工作を図りました。
しかし和気清麻呂が持ち帰った信託は、道鏡の望むものとは全く正反対の内容でした。
我が国は開闢以来、君と臣はハッキリと分かれている。皇位には必ず皇統の者を立てよ。
この神託により道鏡が皇位に就く事は回避されます。
和気清麻呂の英断により皇統は守られたのでした。
しかし、この神託に道鏡は大激怒します。
和気清麻呂は和気穢麻呂に改名させられ、九州の大隅国へ流罪となってしましました。
奈良時代の終わり
道鏡の追放
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明治天皇聖徳奉讃会 – 光仁天皇:『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
宇佐八幡宮神託事件の後、称徳天皇が崩御すると、道鏡の政治的立場は一気に弱まります。
そしてその後を継ぎ、第49代:光仁天皇が誕生しました。
光仁天皇はすぐさま道鏡を政界から追放し下野薬師寺(栃木県)へ流罪としました。
そして和気清麻呂も中央に呼び戻され名前も戻されその名誉は回復されました。
こうして道鏡による皇位簒奪事件は見事に皇統を守り抜き幕を閉じました。
桓武天皇の即位

その光仁天皇を支えたのは藤原百川でした。
百川はまず道鏡の時代に強まった仏教勢力の政治への影響を抑え、政治の立て直しを進めました。
その後、皇太子には光仁天皇の皇子である山部親王が立てられます。
山部親王の立太子には、藤原百川らの政治的な働きかけがあったとされています。
そして781年、光仁天皇は山部親王に譲位しました。
こうして第50代:桓武天皇が即位します。
桓武天皇は奈良時代の政治を大きく見直し、歴史の舞台は大和から京都へ移ることになります。
ここから、いよいよ平安時代へ向けた新しい時代が始まります。
まとめ
奈良時代後半は、橘諸兄から光明皇太后と藤原仲麻呂、孝謙上皇と道鏡という様に次々に政治の中心が移り変わった激動の時代でした。
藤原仲麻呂の乱や宇佐八幡宮神託事件を経て道鏡が失脚すると、光仁天皇が即位します。
そして781年、光仁天皇から譲位を受けた桓武天皇が即位しました。
ここで天武天皇系から天智天皇系へと皇統が移り、奈良時代は終わりを迎えます。
そして次の時代には、桓武天皇は奈良時代の政治を大きく見直し新たな国家づくりを進めていくことになります。
重要ポイント
✔光明皇太后が紫微中台を設置
✔橘奈良麻呂の乱で藤原仲麻呂の反対勢力が一掃される
✔道鏡が権力を握る
✔宇佐八幡宮神託事件で和気清麻呂が皇統を守る
✔道鏡が失脚

