日本の首都といえば、普通は「東京」と答える人が多いでしょう。
しかし実は、日本には首都を明確に定めた法律が存在しません。
では、日本の首都は本当に東京なのでしょうか?
それとも、かつて1000年以上にわたって都であり続けた京都が「本当の首都」なのでしょうか?
この記事では、日本の首都がどのように考えられてきたのかを、歴史の流れとともにわかりやすく解説します。
「首都はどこなのか?」という素朴な疑問の答えが、きっとスッキリ理解できるはずです。
日本の首都はどこ?結論は「明確には決まっていない」
東京が首都?

「日本の首都はどこか?」
こう聞かれると恐らく多くの人は【東京】と答えるでしょう。
実際これは間違いではありません。
東京には皇居、国会、最高裁判所等、日本の政治の中心機関は全て東京に存在していますし、経済面でも東京のGDPは日本のGDPの約2割を占める巨大経済圏となっています。
まさに日本の中心と呼ぶに相応しい都市でしょう。
しかし意外なことに、日本には「ここを首都とする」と明確に定めた法律は存在していません。つまり、法律上は日本の首都はどこなのかがはっきり決められていないのです。
どういうことでしょうか?
法律上の首都は存在しない

1950年に「首都建設法」が制定されました。
これは大東亜戦争後の復興を目指し、東京を首都として開発していく事を目的とした法律で、ここには
「東京都を平和国家の首都とする」
と明確に記述されていました。
この法律は6年後の1956年に【首都圏整備法】に引き継がれる形で廃止となります。
が、引き継がれた【首都圏整備法】には
『この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。』
という条文があるのみで、首都圏は定義されても肝心の首都は定義されていないのです。
このように、日本の首都は法律で定められたものではなく、「実質的に東京が首都として機能している」という少し特殊な形になっています。
では何故このような形になったのか?
ここを少し深堀ってみましょう。
首都とは何か?
首都の定義
そもそも「首都の定義」とは何でしょうか?
一般的には首都とは「国の政治や行政の中心となる都市」のことを指します。
多くの国では、政府機関や議会、最高裁判所などが置かれている都市が首都とされています。
また、国によっては憲法や法律によって首都が明確に定められている場合もあります。たとえば、フランスではパリ、韓国ではソウルのように、首都が法的に規定されています。
一方で、首都を明確に定めた法律が存在しない国もあります。この場合、政治や経済の中心となっている都市が、事実上の首都として扱われる事が多くなっています。
日本の場合は後者なので、やはり政治経済の最大都市である東京が首都で問題ないでしょう。
多くの方が「東京が首都」と答える理由はここにあると考えられます。
歴史的検証

しかし、歴史という視点でこの問題を見つめ直すと少し違った見解が持てます。
歴史的な観点では、「首都」は単なる政治の中心ではなく、【君主や元首が居住する場所が首都】と考える事が出来ます。
王様が存在する都市が政治経済の中心地となるのは自然な事で
【政治経済の中心地⇒首都】
ではなく
【君主の存在⇒政治経済の中心地⇒首都】
と考える事が出来るのです。
日本の君主

日本には古来から一貫して元首として存在し続ける皇室の存在があります。
つまり天皇の居る場所が首都という考え方も可能です。
じゃあやっぱり皇居のある東京が首都じゃないか!
という事になりますが、東京に皇居がある事には少し複雑な事情があり、正式に東京が陛下の居住地とは言い難い状況があります。
以下ではその部分を掘り下げていきましょう。
東京奠都
かつての首都は京都だった

さて、長い歴史の中で日本の中心は京都でした。
794年に都が京都の平安京に移されて以来、およそ1000年の間天皇は京都に君臨し続けていたのです。
鎌倉時代や江戸時代には、それぞれ幕府が開かれ幕府のある場所に将軍が存在し、その場所が政治や文化の中心として繁栄しましたが、その中にあっても当時の都は皇居がある京都でした。
この事実から見ても、「天皇のいる場所が都である」という考え方に立てば、京都は紛れもなく日本の首都であったと言えるでしょう。
では、その都がなぜ現在の東京へと移ったのでしょうか?
新たな首都
話は江戸時代にまで遡ります。
この時代、政治経済、文化の中心は幕府が開かれた江戸にありました。
その後ペリー来航に始まる幕末の騒乱を経て時代は明治へと突入します。
さて、この明治が始まるにあたり、政府は明治維新と呼ばれる様々な改革を打ち出しました。
明治維新は旧来の風習から脱して西洋をモデルとした強力な国家を築き上げる為の日本史上でも類を見ない大改革であったと言えます。
大久保利通 – ウェブサイト, パブリック・ドメイン, リンクによる
この激動の時代の中、新政府の参与・大久保利通は
「古い習慣を捨て新時代を到来させる為」(意訳)
として都を京都から移す【浪華遷都】を提案しました。
天皇と新政府が同じ都市にある事で、新政府の正当性を示す狙いがあったと考えられます。
この案では当初、江戸から近い大阪を新たな都として定める方針でしたが、時を同じくして戊辰戦争で江戸城が無血開城された事から、新政府の一員であった前島密が【江戸遷都論】という建白書が提出されます。
前島密 – Cataqlogue, パブリック・ドメイン, リンクによる
この建白書には
遷都しなくても吹田の恐れのない大阪より、幕府が無くなって衰退の恐れのある江戸を首都にするべきである。さらに江戸は既に大都市であり幕府の政治設備をそのまま転用が可能である。(意訳)
と言った意見が書かれており、大久保もこの意見に同意し江戸遷都論が有力論となっていきます。
しかし、1000年間都であった京都から遷都するというのは反対意見も根強く、反対意見も盛んでした。そのため西日本の国民に配慮し、佐賀藩から提出された【東西両都論】を採用する事になります。
これは江戸を「東京」をと改め
『西の都:京都』『東の都:東京』
と二つの都を定め、天皇が両京を行き来するというものでした。
しかし現実的には2つの都市に政治機能が分割されるのは合理的ではなく、実質的には設備の整った東京に首都機能が集まる事になります。
東京行幸
1868年、明治天皇は
「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」
の勅許を発しました。ここには天皇が東西を同一視して政治を行う為、江戸を東京と改称する事が書かれています。
ここに江戸を改め『東京』が誕生したのです。
その後、天皇は東京行幸(視察)で江戸城へ入城し、その場所を皇居としました。

アルフレッド・ルッサン – このファイルはガリカデジタル図書館から提供されており、デジタル識別子 bpt6k6448925pの下に利用可能です。, パブリック・ドメイン, リンクによる
こうして東京の皇居は現在まで皇室の拠点として機能する事になったのです。
さらに東京には続々と首都機能も設立され、実質的な首都として構築されていきました。
この一連の出来事を【東京奠都】と呼びます。
東京と京都どちらが首都か?
東京奠都のもつ意味
この【東京奠都】で重要な所は「東京を首都と定めた訳ではない」という所です。
あくまでも京都と東京という二つの京を置くというものです。
つまり、法律や勅令によって「首都を東京に移す」と明言されたわけではないのです。
ここが、日本の首都問題をややこしくしている最大のポイントと言えるでしょう。
天皇の東京行幸の後、天皇は東京の皇居に常住するようになり、政府機関も東京に集中したことで、結果的に東京が首都として定着したのです。
京都は今も「都」なのか?

では一方で、かつての都である京都はどうなのでしょうか?
実は京都も、法的に「首都ではない」と明確に否定されたことはありません。
「東京が首都である」と正式に宣言されたこともない以上、理屈の上では首都としての名目を失っていません。
さらに言えば、東京行幸はあくまでも東京皇居への外出であって、正式な皇居は未だ京都にあり、長期間還幸していないだけというのが現状となっています。
また、天皇の象徴たる玉座である高御座も京都の皇居に設置されている事からも、天皇の正式な皇居は京都御所であり、京都の首都としての正当性を伺うことが出来ます。
【君主の所在地が首都である】という理論に基づくならば、未だ京都が首都とする理屈が強くなるのです。
どちらが真の首都か?
ここまで見てきたように「東京」と「京都」そのどちらも首都と呼ぶに相応しい素質を備えており、どちらかを首都と断定する事は難しく、あいまいになっているのが現状です。
ここで一つ疑問が浮かびます。
「なぜ日本は首都をはっきり決めないのか?」
これにはいくつか理由が考えられます。
一つは、歴史的な連続性を重視したためです。
もし「東京が唯一の首都である」と明言してしまうと、1000年以上都であった京都との関係を断ち切ることになりかねません。
当時の人々にとっても現代の我々にとっても、それは非常に大きな問題です。
もう一つは、実務上困らなかったからです。
実際には政治・行政・経済の中心が東京に集まっているため、わざわざ法律で定めなくても誰も困らないのです。
結論として日本は
実質的な首都機能を持つ東京
歴史的な文化と正当性を持つ京都
という二つの首都を持つ特別な国だと言えるでしょう。



