壬申の乱を制した大海人皇子は、天武天皇として即位すると、天智天皇から続く中央集権化の流れをさらに推し進め、律令国家の完成を目指してさまざまな改革を行いました。
そして、天武天皇から持統天皇、文武天皇へと続く政治改革の中で、国家としての制度が次第に整えられていきます。やがて701年には『大宝律令』が完成し、律令国家としての基本的な法体系が整えられる事になります。
今回は、飛鳥時代の最後を飾る、律令国家成立までの流れを見ていきましょう。
天武天皇の政治

天智天皇と対立した天武天皇ですが、中央集権的な国家をつくるという意思は受け継ぎ、天皇を中心とした国家体制の整備を進めていきます。
そのため天武天皇は、政治制度や身分制度、都の整備など、さまざまな改革を行いました。
記紀の編纂開始

壬申の乱を経て有力豪族の勢力が弱まり、天皇の権威がさらに高まると、天武天皇は国家として歴史や伝承を整理する事業にも取り組みました。
当時は各地の豪族や氏族ごとに、独自の歴史や伝承が伝えられていました。
天武天皇はこれらを整理し、国家として統一された歴史を編纂することを目指したのです。
この事業は天武天皇の死後も引き継がれ、奈良時代に『古事記』と『日本書紀』として完成する事になります。
八色の姓
そして天武天皇は都を近江から再び飛鳥に移し、684年『八色の姓』を制定しました。
八色の姓とは、それまで豪族ごとに与えられていた姓の制度を見直し、中央集権国家の実現のために官僚制度を改革する制度でした。
この制度によって豪族の序列が天皇によって明確に定められ、豪族をより強く統制できるようになりました。
式年遷宮
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Daderot – *伊勢神宮*投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる
さらに天武天皇は伊勢神宮の『式年遷宮』制度を設けました。
これは20年ごとに社殿を建て替え、御神体を新しい社殿へ遷す制度です。
天照大神を皇室の祖神として厚く崇敬し、その権威を広く示すことで、天皇を中心とする国家体制を支える重要な役割を果たしました。
この式年遷宮は天武天皇が制度を作り、次代の持統天皇の時に第一回目が行われ、一時中断されたものの現代まで続く日本の重大行事となっています。
皇親政治
天武天皇は
「政治に関することは皇后や皇太子にも報告するように」
と命じ、皇后や皇太子が政治を補佐する体制を築きました。
この体制は天武天皇の晩年になるほど強まり、皇后や皇子たちは次第に政治の中で大きな力を持つようになったと考えられます。
都の造営
持統天皇

天武天皇の崩御後、皇太子が急死してしまった事から、皇后が後を継ぐ事になりました。
690年、第41代:持統天皇の誕生です。
持統天皇は夫の事業を引き継ぎ、国史編纂事業や式年遷宮を進めました。
編纂が続けられていた『飛鳥浄御原令』が施行されたのもこの時です。
藤原京の造営
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名古屋太郎 – *藤原京模型*投稿者自身による著作物 PENTAX K-1 + smc PENTAX-A 1:2.8 20mm, CC0, リンクによる
持統天皇は国家のさらなる発展を目指し、新たな都の建設を進めました。
それまでの都は、天皇の住む宮殿を中心とした比較的小規模なものでしたが、この時はじめて本格的な都城が造られることになります。
その場所には、神武天皇の代から神聖な山として知られる香具山・畝傍山・耳成山の大和三山に囲まれた地が選ばれました。
こうして造営された『藤原京』は、694年に持統天皇が飛鳥浄御原宮から遷都し、710年に平城京へ遷都するまでの間、日本の政治の中心となりました。
文武天皇
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不明 -*文武天皇* The Japanese book “道成寺と日高川”, Wakayama Prefectural Museum (和歌山県立博物館), 2017, パブリック・ドメイン, リンクによる
持統天皇の後継者は太政大臣の高市皇子になる事が群臣の間では暗黙の了解となっていましたが、皇子は皇位に就く前に薨去してしまいます。
それでは後継者はどうするのか?
皇族と群臣の会議の結果、次期天皇は持統天皇の孫の軽皇子に白羽の矢が立てられますが、皇子は15歳という若さのため、持統天皇が上皇となり政務を補佐する形となりました。
そして西暦697年、持統天皇は譲位を行い、第42代文武天皇が誕生します。
持統天皇は上皇となり、文武天皇と共に政務に当たる事になりました。
律令国家の完成
大宝律令

文武天皇と持統上皇の治世が続く中、西暦701年に藤原鎌足(中臣鎌足)の息子である『藤原不比等』らが念願の律令を完成させます。
これは『大宝律令』と呼ばれる、日本初の本格的な律令でした。
当時の東アジアでは、唐を中心とした国際秩序が形成されており、周辺諸国にとって、自らの法制度を整え、独自の国家体制を築くことは、国家としての自立を示すうえでも重要な意味を持っていました。
唐の冊封を受けると、唐の律令に従う事になり隷属国として扱われる事になるからです。
聖徳太子の時代から始まり、『乙巳の変』『改新の詔』『壬申の乱』そして持統天皇による藤原京の建設へと続いてきた中央集権化の流れは、ここに至って「律令」という明確な法制度を備えた国家として、一つの大きな完成を迎えたのです。
日本国号
そして、ここでもう一つ重要なのが「日本」という国号です。
大宝律令には「日本天皇」という表現が見られ、7世紀後半から使われ始めたと考えられている「日本」という国号が、律令国家の成立とともに定着していったことがうかがえます。
こうして日本は、東アジアの国際社会の中で「日本」という国号を掲げ、天皇を中心とする律令国家として、その姿を整えていったのでした。
倭から日本へ

我が国では、この時まで自らの事を『大和』と認識していましたが、国際的には中国王朝の付けた『倭』という国号を使用していました。
他国の歴史書にも『倭国』と記録されています。
しかし『倭』とは中国王朝の付けた侮辱的な意味を有しており、強力な独立国を目指していた我が国は自分たちに相応しい新たな国号を持つ必要がありました。
そして西暦698年、新羅に対して初めて【日本】という国号を使用します。
【日本】とは「日の本」、つまり太陽が昇るところを意味する言葉です。
当時の東アジアから見て、日本は東の海の先に位置していたことから、このような名称が用いられたと考えられています。
聖徳太子が隋の皇帝・煬帝に宛てた国書で、日本を『日出づる処』と表現した事から当時の日本人にはそういった認識があったと思われます。
さらに、日本では古くから太陽の神である天照大神が皇室の祖神として信仰されていました。こうした背景を考えると、「日の本」を意味する【日本】という国号は、当時の日本を象徴する名称であったといえるでしょう。
そして4年後の702年。
律令国家となった我が国は当時の覇権国である唐に対して国号を『倭』から『日本』に変更する事を宣言し、日本は冊封国ではなく1つの独立国である事を堂々と示しました。
現在まで続く元号
また、大宝律令が完成した西暦701年には、新たに【大宝】という元号が定められます。
我が国で元号が初めて定められたのは、西暦645年の【大化】です。
しかし、その後は元号が途切れる時期もあり、701年の【大宝】によって、元号を用いる制度が改めて整えられていきました。元号は、単なる年の呼び方ではありません。
中国では皇帝が元号を制定することが君主の権威を示す重要な制度とされており、日本でも天皇が独自に元号を定めることは、唐の制度をそのまま受け入れるのではなく、自らの国家と君主のもとで独自の年紀を定めることを意味していました。
そして現在、元号を制度として使用している国は日本のみです。
【大宝律令】によって国家を統治する法体系を整え、【大宝】という元号によって独自の年紀を定める。
こうして701年、日本は法と制度の両面から、天皇を中心とする律令国家としての姿を整えていったのです。
まとめ
壬申の乱を経て、天武天皇、持統天皇、文武天皇へと受け継がれた国家改革。
その集大成ともいえる大宝律令が701年に完成し、日本は律令によって統治される国家として大きな節目を迎えました。
また、この時代には「日本」という国号も次第に定着し、元号も「大宝」以降、継続的に使用されるようになっていきます。
飛鳥時代は、仏教という新しい文化を受け入れ、大化改新、壬申の乱など、数々の政治的変動を経験した時代でした。
その激動の時代を経て、日本は天皇を中心とする中央集権的な国家へと大きく変化していきます。
こうして飛鳥時代の終わりには、法、都、官僚制度、身分制度、元号、そして国号など、後の日本国家につながる基本的な仕組みが整えられました。
そしてこの飛鳥時代に整えられた制度や国家の枠組みは、710年の平城京遷都に始まる奈良時代へとそのまま受け継がれ、より本格的な律令国家として発展していくことになります。
重要ポイント
✔藤原京が建造された。
✔大宝律令が完成した。
✔【日本】の国号がはじめて使用された。



