日本史21話 【飛鳥時代④】 壬申の乱

日本史

白村江の戦いに敗れた日本は百済や高句麗から難民を受け入れ、国内の防備に努めます。

そして中大兄皇子なかのおおえのおうじはいよいよ天智てんじ天皇として即位し、聖徳太子の時代から夢見た中央集権国家の完成をみるのでした。

防衛力の強化

百済の役の後、大和は百済の王族や難民を受け入れます。

そして唐が大和を侵略する事を想定し、「対馬」「壱岐」「筑紫」に『防人さきもり』と『とびふ』を設置、特に筑紫には『水城みずき』を築き日本列島の防衛力を大幅に強化しました。

防人

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photo: mizushimasea、像の製作者: 石原昌一氏、レリーフの製作者: 石原昌一氏と門下生、碑名の揮毫: 古閑三博氏 – 鞠智城跡(熊本県山鹿市)内に屋外展示。碑の台座文より、1996年(平成8年)3月吉日建立。同地にある説明文(鞠智城跡のモニュメント「温故創生乃碑」について)より、像の製作者=石原昌一氏。レリーフの製作者=石原昌一氏と門下生。碑名の揮毫=古閑三博氏。mizushimaseaが撮影, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

防人さきもりは、国防のために徴兵された兵士で、主に九州地方の防備を担いました。

主に東日本の人々が選ばれ、国の防衛のために遠く九州へ派遣されました。

『万葉集』には「防人歌」と呼ばれる歌が数多く収録されており、家族や故郷を思う防人たちの切実な心情が詠まれています。

防人歌
・父や母が私の頭をなでながら、「どうか無事で帰ってきなさい」と言ってくれた言葉が、どうしても忘れられない。
・置いて行ったら君がかわいそうだよ。持ってゆける弓の、弓束だったらいいのに。

とびふは、外国使節の到来や敵の襲来などを知らせるために煙を上げる施設です。各地の烽が連鎖的に煙を上げることで、遠く離れた味方へ情報を素早く伝える役割を果たしていました。

また、煙の数や組み合わせによって伝える内容をあらかじめ決めておくことで、敵襲の有無などさまざまな情報を伝達することができました。

水城

水城みずきは唐・新羅の侵攻に備えて築かれた九州の防衛施設です。

全長約1.2kmにわたる巨大な土塁と、その前面に掘られた堀によって敵の侵入を防ぐ構造となっていました。

唐は博多湾から上陸してくる事が想定されたため、博多湾から大宰府へ通じる山間の道を塞ぐように築かれており、防人や烽とともに九州防衛の重要な役割を担っていました。

この水城みずき跡は現在でも確認する事が出来ます。

遣唐使

白村江の戦いの後、大和は幾度にわたって遣唐使を派遣し、国交の回復を目指していました。
武力と並んで外交面でも唐と和解する道を模索していたのです。

天智天皇の政治

天智天皇即位

中大兄皇子

唐の侵略に備えた中大兄皇子でしたが、唐は百済滅亡の後は長年の宿敵であった高句麗へ遠征をはじめた為、結果的に大和に侵攻して来ることはありませんでした。

そしてこの間に、中大兄皇子なかのおおえのおうじはついに帝位に就く決断を下します。

668年、都を飛鳥(奈良県)から近江(滋賀県)へ移し第38代:天智てんじ天皇が誕生しました。

近江令

天智天皇は藤原鎌足ふじわらのかまたり中臣鎌足なかとみのかまたり)に命じ、日本初となる法令集である『近江令おうみりょう』を編纂させました。

これは22巻から成る『令』で大和が律令国家へ向けて前進していることが分かります。

この近江令は存在の根拠が貧しく後の創作だとする説もあります。

庚午年籍

さらに670年には、初の全国的な戸籍である『庚午年籍こうごねんじゃく』を作成しました。

これにより、どれほどの人口が居るのか、そしてその身分を把握し、土地の配給などを管理しました。

この戸籍は永久保存される決まりとなり、以降の戸籍の基準として扱われる事になりますが、残念ながら今では現存していません。

壬申の乱

天智天皇の崩御

吉野へ赴く大海人皇子

大化の改新から大和の政治をリードしてきた天智てんじ天皇でしたが、病を患ってしまい、ついにその壮大な人生の幕を下ろす時が来ました。

しかしここで皇位の継承に問題が生じます。

天智てんじ天皇ははじめ弟である大海人皇子おおあまのおうじを皇太子に指名していましたが、やがて息子である大友皇子おおとものおうじを太政大臣に任命する等、徐々に息子を次の皇位に就ける姿勢を表し始めました。

病床の天智てんじ天皇は弟の大海人皇子おおあまのおうじを呼びつけ皇位の譲渡を持ちかけますが、作為的な意図を感じたのか真意は定かではありませんが、大海人皇子おおあまのおうじは辞退して近江を脱して奈良の吉野で出家しました。

そして672年、とうとう天智てんじ天皇は崩御となってしまいます。

大海人皇子の挙兵

天智てんじ天皇の崩御後、息子の大友皇子おおとものおうじが後を継ぎ朝廷のトップに立ちました。

『日本書紀』には大友皇子おおとものおうじが正式に天皇に即位した記述はありません。
しかし明治期に第38:弘文こうぶん天皇の諡号しごうを送られ天皇として正式に認められました。
現在では【弘文こうぶん天皇即位説】【非即位説】が盛んに議論されています。

一方吉野の大海人皇子おおあまのおうじは、天智てんじ天皇崩御の翌年、自身に与えられた領地の美濃(岐阜県)へ走り兵を上げました。

大海人皇子おおあまのおうじは改革に不満を持つ国司や郡司等の地方豪族に使者を送って味方につけ、軍事力を拡大していきます。

近江の大友皇子おおとものおうじ側では古来の豪族が中心となり、皇位継承争いは皇室内だけのものではなく全国の豪族を巻き込む大問題となりました。

天智天皇の皇位継承争いは

大友皇子おおとものおうじ側の保守的な古来豪族』vs 『大海人皇子おおあまのおうじ側の革新的な地方豪族』

の争いとなり、古代日本最大の内戦である【壬申じんしんの乱】の幕が切って落とされる事になります。

壬申の乱

壬申じんしんの乱では大和(奈良県)や近江(滋賀県)を中心に戦が広がり、戦況は大海人皇子おおあまのおうじに偏ります。

そして近江の瀬田橋の戦いで大海人皇子おおあまのおうじ軍が圧倒的な勝利を収めると、敗北を悟った大友皇子おおとものおうじは首を吊って自決し、古代日本最大の騒乱は天智天皇の弟、大海人皇子おおあまのおうじの勝利で幕を閉じました。

壬申の乱は地方の中小勢力が、古代から豪族として大和政権を支えた旧勢力を破壊した闘いとも言えるでしょう。

この内乱の結果、天皇家に対抗できる様な有力豪族は没落し天皇家の権威はさらに高まり、より中央集権国家としての性格が強まっていく事になります。

まとめ

21話では壬申の乱を扱いました。

白村江の大敗での戦後処理を終えた天智天皇の崩御に端を発した、息子と弟の闘いは日本全国を巻き込む騒乱となり地方豪族が、これまでの旧勢力を駆逐してしまいました。

結果として天皇の権威はより高まり、本格的な中央集権国家への道が開ける事になります。

重要ポイント

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