日本史18話 飛鳥時代① 聖徳太子

日本史

古墳時代は崇峻すしゅん天皇の暗殺を持って幕を閉じました。
ここからは飛鳥時代へと突入します。
飛鳥に都が置かれた592年から平城京に遷都した710年までを【飛鳥時代】と呼ばれています。

この時代、東アジアは動乱期を迎え、日本は混沌の時代を生き抜くために統一国家を目指して奔走していく事になります。

聖徳太子

隋帝国

丁末ていちょうの乱によって物部氏が滅んだ2年後の589年。
中国では南北朝の時代が終わりを迎えて、隋が圧倒的な力で中国を統一しました。

その国力を恐れたアジア諸国は次々と随へ朝貢しましたが、倭の五王の時代から中国へ朝貢を停止していた大和は朝貢に慎重でした。

聖徳太子の摂政就任

聖徳太子

この頃大和では、第33代推古天皇の補佐を行う為、聖徳太子が皇太子となり、摂政の座に就きました。
聖徳太子は後に政治の実権を握っていた蘇我氏と共に革新的な政策を打ち出すことになります。

聖徳太子は本名を厩戸王うまやどのおうと言い、父に用明天皇、母に蘇我稲目そがのいなめの孫を持って生れ落ちました。
非常に天才的な人物と呼ばれており、昭和32年から61年まで5000円札の肖像に選ばれていた程です。

第一次遣隋使

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トムルFile:Whole world – land and oceans 12000.jpg modified by トムル、『増補版 標準世界史地図』(吉川弘文館、2022年), CC 表示-継承 3.0, リンクによる

隋が建国されて11年後の西暦600年、大和はついに隋へ使節を派遣する方針を固めます。

しかし、この時の第一回遣隋使は国書を持参する事すらしなかった為、隋の皇帝:煬帝ようだいは「無礼である」と相手にしなかったと言います。

帰国した遣隋使から隋の事情を聴いた聖徳太子は隋の強大さと自国との国力の差に強い危機感を抱きます。

隋は大国であり、隋に朝貢しない国、つまり隋の臣下にならない国は敵国と見做される危険がありました。

またこの頃、朝鮮半島では任那みまなが滅ぼされた事から大和の半島における権益が弱まっていた為に影響力の奪還も政府の重大な急務となっていました。

こうした事から、聖徳太子は早急に国内の改革が必要だと考え、強力な中央集権国家を目指す決意を固めるのでした。

統一国家を目指して

冠位十二階

国内改革の第一手として聖徳太子が定めたのは603年の【冠位十二階】でした。

これにより、家柄に関わりなく優秀な人物は官職を得られるようになりました。

十七条の憲法

続いて604年に【十七条の憲法】が制定されます。

第一条の『和をもって尊しとなす』から始まるこの法律は
・争いではなく協調の精神を大切にする事
・独断ではなく話し合いを大切にする事
・私欲を捨て公に尽くす事
・仏教を学ぶ事
・天皇の命令に従う事

などが記されており、和の精神を持って豪族間の争いを無くし、強力な中央集権国家を作り上げる事を目的としました。

日出ずる処の天子

第二次遣隋使

国内の体制が整ってきたと判断した聖徳太子は、今こそ再び隋に国交を求める時だと考えました。

遣隋使に小野妹子を任命し、607年、第二次遣隋使が隋へ旅立ちます。

隋に到着した小野妹子は隋皇帝『煬帝』との謁見を許され、国書を提出しました。

この国書の

という文章はあまりにも有名です。

国書を受け取った煬帝は激怒、日本の天皇と隋の皇帝が同列に扱われていたからです。

これは『日本は隋と対等である=日本は隋の臣下ではない』というメッセージでした。

しかし激怒した煬帝は意外にも大和との国交を受け入れました。

当時隋は朝鮮半島の高句麗と戦争中であり、朝鮮半島の権益を狙う大和と事を構えたくなかったからだと考えられます。

当時の世界情勢を巧みに利用した聖徳太子の政治手腕でした。

法隆寺

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663highland法隆寺:投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, リンクによる

この時代には、蘇我氏が飛鳥寺を建立するなど、仏教を広めるために多くの寺院が建立されました。

また、聖徳太子も仏教の興隆に力を注ぎ、7つもの寺院を建立したと伝えられています。その代表例が、難波(現在の大阪市)に建立された四天王寺や、斑鳩にある法隆寺です。

これらの寺院は、単なる信仰の場ではありませんでした。僧侶が経典を学ぶ教育機関としての役割を果たしたほか、大陸から伝わった新しい文化を受け入れる拠点にもなりました。

また、法隆寺は現在世界最古の木造建築として世界遺産に登録されています。

天皇号のはじまり

錦の御旗

翌608年、日本は第三次遣隋使を派遣しました。

しかし、前回の遣隋使では国書の中で「天子」という言葉を用いたため、隋の皇帝の反発を招いてしまいます。

「天子」とは「天下を治める唯一の支配者」という意味です。中華思想では、その称号を名乗れるのは皇帝ただ一人と考えられていました。

一方で、「王」という称号では皇帝の臣下という立場になってしまいます。そのため、日本は隋と対等な立場を示すことができません。

そこで考え出されたのが、日本独自の君主号である『天皇』です。

こうして

という国書が完成し、改めて日本と隋の対等性を示す事に成功したのです。

隋の滅亡

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建国者:李淵 パブリック・ドメイン, リンク

強大な力を誇った隋でしたが、皇帝煬帝の度重なる大規模工事による出費や高句麗との戦争により疲弊した国内で反乱が多発。

618年に煬帝が暗殺され、隋帝国は事実上崩壊しました。

滅亡後の混乱の中、隋の武将であった李淵が覇権を握り、超大国となる唐を建国。

東アジア世界は更なる混迷へと進んでいきます。

18話のまとめ

19話では飛鳥時代のはじまりから隋の滅亡までを扱いました。

動乱の東アジアで生き残る為、聖徳太子は国内の改革に当たり中央集権国家を目指します。

そして他国が隋へ朝貢し臣下の礼を取る中、日本と隋は対等だという姿勢を崩さないまま隋と国交を結ぶ事に成功しました。

重要ポイント

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