日本史 第15話【古墳時代6】

日本史

大和の発展②

雄略天皇の即位

前回仁徳天皇が崩御してから時代を50年程下ると、第21代雄略ゆうりゃく天皇の時代となります。

Emperor Yūryaku.jpg


雄略天皇 Published by 三英舎 (San’ei-sha) – “御歴代百廿一天皇御尊影”, パブリック・ドメイン, リンクによる

雄略天皇の兄である、第20代安康あんこう天皇が即位して3年になる時、安康天皇は自身の義理の息子に暗殺されてしまいます。

この知らせを受けた雄略天皇は、皇位継承者が指名されていない事を確認し、他の皇位継承資格者を殺害し、自身が天皇として即位します。第21代雄略天皇の誕生です。

産業の発達

天皇は宋(中国)に使者を送って技術者を招き、産業力の発展に力を注ぎました。

中でも養蚕ようさん業や紡績ぼうせき業が大きく発展します。

養蚕業とはかいこというチョウを飼育し、その繭からきぬ(シルク)を取り出す産業を言います。
絹は日本の主要な輸出品として国内経済を支えました。

Silk raw 01.jpg


絹:Kuebi = Armin Kübelbeck – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

神功皇后の代以来、外国の技術者を引き入れる事で大和は学問や農業、手工業などの産業が大きく進化しその国力を確かなモノへ変えていくのでした。

伊勢の外宮

このように国が豊かになってくると、天皇は豊かさに感謝を表す為の祭祀が必要だと考えるようになりました。

そして伊勢の地に、食物の神である豊受大神とようけのおおかみを祀る祭壇を設置し、恵みに深く感謝する祈りを捧げるようになりました。

これが現在の伊勢神宮外宮の始まりです。

伊勢神宮の社伝によると、雄略天皇の夢に天照大神が現れ
「自分一人では十分な食物を与えることが出来ないので豊受大神を私の近くに祭って下さい」
との神託を受けたとされています。

2本の鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣

1968年、埼玉県の稲荷山古墳から1本の鉄剣が出土します。

この鉄剣は『稲荷山古墳出土鉄剣いなりやまこふんしゅつどてっけん』と呼ばれ、鉄剣にはびっしりと文字が敷き詰められていました。

稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。


Saigen Jiro埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。撮影許可下でSaigen Jiroが撮影。, パブリック・ドメイン, リンクによる

これは現在確認できる日本最古の文字資料で、115文字という大量の文字が確認されました。

鉄剣にはこう記されています。

この文からこの剣は辛亥の年(471年)のモノだと分かります。

これはこの時代には漢字が普及していた事の証拠となりました。
そして文中の『ワカタケル大王』とは雄略天皇の事を指し、さらに471年は雄略天皇(456~479)の在位期間とも合致します。

雄略天皇の本名は『大泊瀬幼武天皇』(おおはつせわかたけのすめらみこと)と言いワカタケルと言う部分が一致。

日本書紀の紀年が考古学上の年数と一致した初めての事でした。

銀象嵌銘大刀

1873年にも熊本県の江田船山古墳えたふなやまこふんから、何らかの文字が記された鉄刀が発掘されていました。

銀象嵌銘大刀刀身.jpg


ColBase: 国立文化財機構所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Institutes for Cultural Heritage, Japan), CC 表示 4.0, リンクによる

ここには「獲〇〇〇鹵大王」と記されているのが確認されていましたが保存状態が悪く文字の判別が出来ない事からどの天皇を指すか特定できない状況にありました。
しかし『稲荷山古墳出土鉄剣』の発掘により、「ワカタケル大王」と読むのが正しいと判明します。

こうして全文を読み解くと

という文章が記されていました。

これら二本の剣は共に雄略天皇を天皇として仰いでおり、この時代には大和による支配が少なくとも関東から九州に及んでいた事の証明となります。
雄略天皇の実在性と、日本書紀の信頼性を大きく高める発見となりました。

倭の五王

宋書に書かれた倭

宋(中国)の正史『宋書』には倭の王が度々朝貢して来ては、官位を求めてきた事が記されています。

この事は日本側の資料には記されていませんが、当時の日本を知る重要な手がかりである事は間違いありません。

宋書によると421年倭(大和)から倭王『さん』が初めて朝貢にやってきます。

それ以来、『ちん』『せい』『こう』『』と5代の王が宋に官位を求めました。

これは当時の朝鮮半島は『高句麗』『百済』『新羅』『任那』の国々が争っており、動乱期にあった朝鮮半島に利権を持っていた大和が、その利権を明確なモノにする為に中国皇帝の威光を借りようとしたものだと考えられます。

倭の五王は日本のどの天皇に比定されるかは諸説あります。
有力な説と朝貢の記録を以下にまとめました。

王の名(中国記録) 活動時期 中国での出来事 日本の天皇との比定説
讃(さん) 421年 最初に宋へ朝貢 応神天皇 / 仁徳天皇 / 履中天皇
珍(ちん) 438年 「讃の弟」と記される 履中天皇 / 反正天皇
済(せい) 443年・451年 「安東将軍倭国王」に任じられる 允恭天皇
興(こう) 462年 済の子として朝貢 安康天皇
武(ぶ) 478年 雄大な上表文を送り、倭国の強さを誇示 雄略天皇

この中でも武が雄略天皇である可能性は極めて高く、478年に武は宋に対し『高句麗と戦争中の百済を助ける為に倭が出兵するので、それに相応しい官位を与えて欲しい』との趣旨の上奏文を提出しています。

これが認められ、武は「使持節しじせつ 都督ととく倭・新羅・任那・加羅・秦韓しんかん慕韓ぼかん六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の称号を得ました。

朝貢の狙い

五世紀頃の東アジア

倭王武が雄略天皇であるとするならば、上記の鉄剣や日本書紀から分かるように既に天皇は日本列島を統一していたので国内をまとめ上げる為に中国皇帝の威光が必要だったとは考えられません。

とすれば朝貢の狙いは、中国の影響を大きく受けている朝鮮諸国には官位の力が有効的に働くと考えたからでしょう。

日本書紀の雄略天皇記には百済との友好と新羅、高句麗との戦いが記されています。

つまり雄略天皇の時代は朝鮮半島での大和の立場が揺らぎ始めている時代であり、中国皇帝から官位を貰う事で半島における支配の正当性を掲げて権力基盤を固める事が目的だったと考えられます。

また、宋が滅ぶと後続国に対して天皇は朝貢をすぐに打ち切っており
大和は他のアジアの国とは違い、中国の冊封体制に入らない独立国家としての性格を持っていた事が分かります。

後に聖徳太子の時代に日本の天皇と中国の皇帝は対等だと言う態度を示す事になりますが、その意識はこの時既に芽生えていたのかもしれません。

タイトルとURLをコピーしました