日本史 第14話【古墳時代5】

日本史

※古墳時代(2世紀〜6世紀)の日本には文字資料が乏しくこの時代に何があったのかは学者の間でも意見が分かれており定かではありません。
当サイトでは日本書紀に準拠しております。

大和の発展

渡来人の働き

前回、神功じんぐう皇后の三韓征伐後に産まれた子が成長し、第15代応神おうじん天皇として即位します。

Emperor Ōjin2.jpg


応神天皇
住吉具慶 (Sumiyoshi Gukei, 1631-1705) – Japanese Book, “History of Habikino City, Vol. 7 (Historical Documents 5)” [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

父に天皇を持ち、母は朝鮮半島を勢力下においた偉大な皇后であり、彼への期待は相当なモノであったでしょう。

その期待に応えてか、彼の御代は素晴らしい治世となります。

神功皇后の三韓征伐の後、朝鮮との交易が広がり多くの人や資源が大和へ流れ込むようになり、彼らは渡来人と呼ばれました。

応神天皇は渡来人を厚く用いて彼らの知識や技術を積極的に取り入れ、大和の産業を大きく発展させました。

鉄資源の輸入が可能になった事は大きな変革であり、渡来人の技術も交えて鉄製器具などの生産がはじまり、これまでよりも格段に農業などの生産性が向上する事になります。

こうして産業が発達していく中、天皇が特に力を入れたのが農業と学問で、溜め池を多く作り田畑をより多く作れる様に工事を行い、鉄製農具の普及等により根本的な農業力を強化され、より多くの農作物が収穫されるようになり大和はその豊かさを増していきました。

また百済から多くの学者を招き入れ、特に天才とされる王仁わにを宮中へ仕えさせ『論語』等の多くの経典や『千字文』と呼ばれる漢字の教科書がもたらされ、大和に漢字が広く普及したと考えられます。

さらに天皇は自身の三男である菟道稚郎子うじのわきいらつこを特に可愛がっており、王仁わにを専属の家庭教師として徹底した英才教育を施していました。

漢字の普及には諸説あり、特に支配者層はもっと以前の時代から文字の読み書きが可能であったという考えも十分に可能です。

渡来人の中には、大和に住み続け帰化する者も現れ、後に豪族として力を付ける一族もありました。百済からやって来た弓月君ゆずきのきみ等はその代表例で、弓月君ゆずきのきみは強力豪族『秦氏はたし』の祖となりました。

聖帝の治世

仁徳天皇即位

Nintoku-tennō detail.jpg


仁徳天皇
楊洲周延artelino – Japanese Prints – Archive 1st June 2009, パブリック・ドメイン, リンクによる

応神天皇には3人の皇子が居てそれぞれ

長男は大山守皇子(おおやまもり の みこ)
次男を大鷦鷯尊(おおさざきのみこと
三男を菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)

と言います。

応神天皇は寵愛していた三男のウジノワキに皇位を譲る事を定めていましたが、これに納得のいかない長男のオオヤマモリは弟を殺めて皇位継承を自分のもとに手繰り寄せようと兵を引き連れ宇治にあるウジノワキの宮へと出立しました。

この情報を掴んだオオサザキは弟を守る為こっそりとその事をウジノワキへ伝えます。

ウジノワキは自ら兵士へと変装してオオヤマモリへ近づき、彼が宇治川を渡っている時にわざと船を転覆させ溺死させました。

宇治川

こうして危機を乗り越えたウジノワキでしたが、応神天皇の崩御後は皇位に就こうとはしませんでした。

「皇位に就くものは高い徳を備えておかなければならない、自分は父に可愛がられていただけであって徳は無い。その点兄は徳も高く聡明であるから彼が帝に相応しい、兄が天皇となるのだ民の為だ」として兄であるオオサザキへ皇位を譲りますが、オオサザキも「先帝はウジノワキを帝に選んだのだから」と受け入れません。

こうして皇位を譲り合あっている間、指導者が居ない事で混乱が起こりはじめます。この政治空白は3年間続きました。

こうした混乱を憂いたウジノワキは、自ら自死する道を選ぶ事でこの問題に決着をつけます。大和の事を何よりも案じた故の選択だったのでしょう。

弟の訃報を聞いたオオサザキはすぐに彼の宮へ駆けつけ、遺体を前に泣き叫んだと言います。

弟の死に深く悲しんだオオサザキでしたが、ついに皇位に就くことを決心し、ここに第16第仁徳天皇が誕生するのでした。

民のかまど

皇位についた仁徳天皇は、都を難波(大阪府)に移しました。

ある時宮殿から難波の様子を眺めていると、人家にかまどの煙が上がっていない事に気づきます。

Emperor Nintoku painted by Matsuoka Hisashi.jpg


松岡寿https://museum.isejingu.or.jp/sp/museum/collection/04123.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

「町からかまどの煙が見えない、これは人民が貧しく満足に米も炊けないからだろう。今後三年間は税の徴収をやめて民の暮らしを優先させる」と詔を発しました。

この英断により税負担の無くなった民の生活は安定し、各地より天皇を讃える声が絶えなかったと言います。

一方天皇自身の生活は困窮し、衣服や履物は穴が空くまで使って、食事も質素、皇居の屋根は壊れて寝室で横たわると夜空が見える程の節制生活でした。

そして3年が経った頃には、かまどの煙は方々盛んに立ち昇り五穀豊穣で穀物も良く実り民の暮らしはすっかりと良くなっていました。

天皇はこれをみて言います

「私は十分に富んだ、民の富こそ上に立つ者の富だ。民の苦しみは私の苦しみであり、民の幸せは私の幸せである」

民は皇居がボロボロになっている様をみて自分たちが自ら皇居の修復をしたいと願い出ますが天皇は許さず民の生活を優先させました。

それから更に3年の後、再び民が皇居の修復を願い出て、老いも若いも全員が一丸となり、立派な皇居が修復されます。

これほどまでに民に好かれた王は古今東西世界中を見渡してもなかなか見つかるものではなく、仁徳天皇は聖帝として後の世に伝えられ、統治者の模範として語り継がれていきます。

日本初の大規模土木工事

河内平野(大阪府)では大和川の氾濫などの水害が多く、ひとたび氾濫すれば道路は水没し田畑や家は破壊される有様でした。

この対策の為、天皇は詔を発し、大規模な治水工事を敢行します。

地を掘って水の流れを変えて大阪湾へ接続する事で水量を調節し、さらに堤防も築いて備えを万全なものとしました。

工事は見事に成功し、河内平野では水害がおさまり安定した農地開発が可能となった事で都として相応しい規模の都市へ発展していきました。

これは日本初の大規模土木工事であり、大和の技術力がかなり高いレベルに向上していることを表しています。

仁徳天皇陵

大仙古墳(仁徳天皇陵)

その後仁徳天皇は惜しまれつつも崩御となりました。

日本書紀では天皇を百舌鳥野陵に葬ったとされており、平安時代に編纂された『延喜式』にはその陵の巨大さが記されています。

その巨大さから宮内庁は大阪府堺市にある『大仙古墳』を百舌鳥野陵即ち仁徳天皇陵と比定しています。

この陵の面積は中国の秦の始皇帝墓やエジプトのクフ王のピラミッドを超えて世界最大の墳墓であり、2019年にはユネスコ世界遺産にも登録されました。

タイトルとURLをコピーしました