日本史 第12話 古墳時代3

九州平定

景行天皇即位

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景行天皇
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垂仁すいにん天皇の崩御後、新たに皇位に就いたのがその御子である第12第景行けいこう天皇です。

天皇は即位後すぐに皇后をめとり、二人の子どもをもうけました。

その一人が古事記で活躍の描かれているヤマトタケルです。

景行天皇とヤマトタケルの親子は日本列島のほとんどを大和国として平定し現代日本の国土基盤を作り上げる偉業を成し遂げる事になるのです。

筑紫の平定

即位から12年後、天皇は九州の平定に乗り出します。

最初に九州の玄関口である筑紫国つくしのくに(福岡県)へ赴き、筑紫国の女王神夏磯媛かむなつそひめと出会います。

「私たち筑紫国は大和国と闘う意思はありません。望むのなら大和の政権に参加しましょう。ただ一つ頼みがあります。筑紫には鼻垂はなたり耳垂みみたり麻剥あさはぎ土折猪折つちおりいおりという賊が居ます。奴らをあなた達のお力で討伐して頂けないでしょうか?」

この女王の申し出を受け入れ、筑紫各地で暴れていた賊長を宝物でおびき出して誅殺し、筑紫国の平定に成功しました。

皇軍は南下し速見村はやみむら(大分県)に辿り着きます。

この村で大和政権に反抗する者達が軍備を整えているという情報を得た天皇は、皇軍を差し向けこれを討伐し、九州の熊襲を除く反抗勢力を打倒しました。

熊襲征伐

熊襲くまそを束ねるクマソタケルは中々強力な軍を持っている。もし戦を起こせば激しい戦禍によって熊襲の民は甚大な被害を被るだろう。何とか戦を起こさずにクマソタケルを倒す方法は無いものか」

天皇が頭を悩ましていると臣の一人が

「クマソタケルには二人の娘が居る様です。宝物を積んで手に入れましょう。そして彼女達からクマソタケルの情報を得て奇襲を仕掛ければ容易く制する事が出来ましょう。」

と策を献上してきたので「名案だ」とこれを採用し、クマソタケルの娘二人を迎え入れました。

彼女達は天皇側に付き、父であるクマソタケルを酒で酔わせて暗殺してしまいます。

こうして指揮官を失った熊襲は混乱し、皇軍は熊襲を討伐したのでした。

熊襲討伐を果たした景行天皇は、その後九州各地を巡行して地名を付けて回り、本格的に九州を平定し、大和政権の一部に取り込みました。

ヤマトタケル

熊襲の反乱

景行天皇は九州の平定後、次は東北の平定に目を向けていました。

臣の竹内宿禰たけのうちのすくねを東北の偵察任務へ立たせ情報を集めていた所、九州の熊襲が再び謀反を起こしたとの報が天皇の耳に入ります。

天皇はこの反乱の鎮圧を息子のヤマトタケルへ命じます。

この時、ヤマトタケルは16歳、名をオグナと言いました。

命令を受けたヤマトタケルは熊襲へ赴き、反乱の首謀者がタケルと言う名の人物であることを突き止めました。

宴会が行われる事を知ったヤマトタケルは、この宴会を利用してタケルの暗殺計画を企てます。

そして自ら女装し宴会に交じり、気を見てタケルへと近づき泥酔していた彼を袖に隠していた短剣で刺殺するのでした。

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ヤマトタケルとタケル
Yoshitoshi Tsukioka (月岡芳年) – English: No warriors in the year of the year.日本: 芳年武者无類, パブリック・ドメイン, リンクによる

この時、タケルは自身の名を送るので見逃してくれと命乞いをしますが聞き入れずそのまま殺してしまします。
しかし名を貰う事自体は気に入り、これ以降オグナと言いう名を改名しヤマトタケルと名乗ったのでした。

さらに大和への帰路で、吉備きび(広島県、兵庫県)と難波なにわ(大阪府)で治安が乱れ賊徒が暴れているのをみたヤマトタケルはこれを鎮圧し吉備と難波に治安を取り戻したのでした。

この報告を受けた景行天皇は大喜びで、息子の功績にを大いに評価したと記録されています。

この辺りは『古事記』では少し違った物語となっており
ヤマトタケルのサイコパス的な資質に恐怖を感じた景行天皇が、わざと過酷な熊襲鎮圧の任務を与えて戦死するように仕向けており、親子の関係の違いが強調され、ヤマトタケルは悲劇のヒーローとして描かれています。

蝦夷討伐

東北の情勢を探っていた竹内宿禰たけのうちのすくねが大和に帰還し、「東北や東国あづまのくにには広大で肥沃な土地が広がっており、蝦夷えみしという者たちがその地を支配している」と報告しました。

天皇は東日本平定を決断し、ヤマトタケルに平定事業を委任します。

ヤマトタケルは遠征に先立ち、伊勢に赴き自身の叔母である倭姫命やまとひめに会い、彼女が保管していた三種の神器の一つ『草薙剣くさなぎのつるぎ』を託されたのでした。

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草薙剣で火を薙ぎ払うヤマトタケル
パブリック・ドメイン, リンク

遠征の途中、駿河に入った時、賊徒との戦いで火攻めを受けた際、
草薙剣を振るうと平原の周りの草が消し飛び、炎がそれ以上進まず命が助かった。
このエピソードから『草薙剣』と呼ぶようになったと伝えられています。

相模さがみ(神奈川県)から海路で陸奥国むつのくに(宮城、福島、岩手、青森)に入った大和軍はそこで守りを固めていた蝦夷と対峙します。

しかし大和軍の軍容に驚愕した蝦夷はヤマトタケルにあなた達は何者かと問うと

「我々は天の神の子孫である天皇の皇軍である、そして私はその皇子だ」

と答えると蝦夷は感嘆し降伏しました。

こうして蝦夷勢力は大和の勢力圏へ入り、東日本は平定されたのです。

ヤマトタケルの死

帰路で尾張国(愛知県)に入った時、そこで宮簀媛みやすひめという美しい女性に魅せられたヤマトタケルは彼女を妻として向かい入れました。

そして尾張で伊吹山(滋賀県)にて山の神が暴走しているという情報を得た後、神を鎮める為に伊吹山へ出向きます。

伊吹山では神を鎮める事に成功しますが、不幸にも激闘からか病気となってしまい、徐々に体調は悪化。

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伊吹山山頂のヤマトタケル像
Alpsdake投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

なんとか大和への帰還を図りますが、伊勢(三重県)に辿り着く頃にはかなり疲弊しており、父(景行天皇)への遺言を残して亡くなってしまいます。30歳の時でした。

死の知らせを聞いた景行天皇は大いに悲しみ食事も喉を通らないほどだったと言います。

天皇はヤマトタケルの為、陵墓の建築を命じ伊勢の能褒野のぼのに陵が建てられたました。

この時、ヤマトタケルの遺体が白鳥となり彼方へ飛び立ち、
琴弾原ことひきのはら(奈良県)
古市邑ふるいちのむら(大阪府)
にそれぞれ降り立った事から、この地にも陵墓を建築し、現在ヤマトタケルの陵は計3つの陵墓が治定されています。

また、妻である宮簀媛は、彼を偲んで残された三種の神器の一つ『草薙剣』を尾張国でお祀りします。
これが熱田神宮のはじまりとされており、草薙剣は今も熱田神宮に安置されています。

景行天皇崩御

即位から60年、景行天皇は崩御となり、山邊道上陵やまのべのみちのえのみささぎ(奈良県)に葬られました。

景行天皇の御代では、景行天皇とヤマトタケルの親子二代で九州と東日本を大和政権に組み込み日本の大部分を完成させた凄まじい時代と言えます。

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