日本史 第11話 古墳時代2

日本史

垂仁天皇

垂仁天皇即位

崇神すじん天皇の崩御後、新たに皇位に就いたのが第11代垂仁すいにん天皇です。

天皇は都を纏向まきむく(奈良県桜井市)へ遷都し、珠城宮たまきのみやを建造しました。

この纏向は巨大な都となっており古墳時代の大和の首都的役割を果たしていたと考えられています。

時を同じくして任那から来朝していたソナカシチが帰国する時期に来たので、天皇は彼の功労を評価し大量の宝を与えて帰国させました。

しかしソナカシチの帰国中に朝鮮半島東部の新羅国の兵に襲われ宝を全て奪われてしまい、ここから任那と新羅の対立が始まる事となりました。

新羅王子

ソナカシチ帰国から数年後、一人の男が大量の宝を携えて大和へやって来ました。

「何者だ?」と問うと

「私はアメノヒボコ、新羅国の王子である。この地には聖王が居ると聞いてはるばる海を越えてやって来た。」

アメノヒボコは宝を献上する代わりに大和に住む場所を探したいと言うので天皇はこれを許します。

移住の許しを得た彼は近江(滋賀県)を経て但馬(兵庫県)で定住しました。

このアメノヒボコの伝承は渡来人の神話化ではないかと言われており、
朝鮮人が集団で渡来してきて技術などを日本へ伝え土着化したものをまとめたエピソードではないかという説もあります。

いずれにしてもアメノヒボコと関係の深い出石神社が古代から創建されている事や子孫が朝廷に仕えている事からも
それなりの影響力があった事は間違いありません。

サホヒコの反乱

垂仁天皇の皇后である狭穂姫命サホヒメノミコの兄である狭穂彦王サホヒコノミコはサキヒメに
「お前は旦那と俺、どっちが好きだ?」

と問いかけ

サホヒメは戸惑って「お兄様です」と答えてしまいます。

「ならば旦那を暗殺しろ、女が天皇に可愛がって貰えるのは若い間だけだ。それが過ぎたら俺たちは終わる。その前に天皇をこの小刀で斬ってしまえ、そうすれば俺たちの天下だ」

すさまじい計画に戸惑いながらも断り切れなかったサホヒメは暗殺を決意します。

天皇と二人寝室で膝枕をして居る時に衣服に隠した小刀で一突きする計画でしたが、いざその時になると良心からとても殺すことなど出来ず涙を流してしまい雫が天皇の頬へ落ちます。

天皇がどうしたのかと聞くと堪え切れなくなったサホヒメは全てを打ち明けるのでした。

天皇はサホヒメを許し、サホヒコに罪があるとして彼に軍勢を差し向けます。

これを予見していたサホヒコは既に城を築いて戦闘態勢に入っており両軍は衝突する事になりました。

戦いは皇軍有利で進みますが、兄を見捨てられなかったサホヒメは兄の城に入り共に立て籠ります。

それを知った天皇はしばらく戦闘を中断し停戦状態に、さらにサホヒメは身籠っていた為、この間に子供を出産したのでした。

サホヒメはその子をホムチワケと名付け、城の外に出て天皇に託します。

「お前も戻ってこい」天皇は言いますが、自分は罪深いとして城に戻り火を付け兄と共にこの世を去りました。

相撲の発祥

Nomi no Sukune Wrestling with Taima no Kehaya LACMA M.84.31.87.jpg
Tsukioka Yoshitoshi (Japan, 1839-1892) – Image: http://collections.lacma.org/sites/default/files/remote_images/piction/ma-31810807-O3.jpgGallery: http://collections.lacma.org/node/191685 アーカイブされたコピー at the Wayback Machine, パブリック・ドメイン, リンクによる

当麻邑(奈良県葛城市)に当麻蹶速たいまのけはやという筋肉モリモリの力自慢が居ました。

彼はよく「俺は最強だ、俺に勝てる奴いるの?」と自慢していたのでそれを聞いた天皇は「面白い、誰かアイツと戦わせてみよう」と挑戦者を募りました。

すると家臣のひとりが
「出雲に野見宿禰のみのすくねという闘士が居るようです。彼を当麻蹶速と戦わせてみてはどうでしょう」と提案したので出雲から野見宿禰を呼び出し決闘させる事になりました。

決闘の時がやって来て二人は向かい合い取り組み合いました。

そして戦いは足技の勝負となり野見宿禰の強烈な蹴りが炸裂し当麻蹶速のあばらを粉砕。

当麻蹶速は息を引き取り決闘は野見宿禰の勝利で終えました。

野見宿禰は褒美として当麻蹶速の領地を貰い受け、天皇の家臣として仕える事になります。

この二人の決闘が相撲の発祥とされており(諸説あり)現在も奈良県葛城市には当麻蹶速のお墓が残されています。

神宮の創建

伊勢神宮

垂仁天皇は家臣を集めて言いました。

「先代の帝は偉大であった。政治を改革し神々を正しく祀る事で五穀は実り人民は富み、大和は太平となった。そこで私も神々をお祀りする事で善政を引きたいと思う。」

そこで天皇は先帝の代から豊耜入姫命トヨスキイリビメノミコに命じて祀らせている天照大神と八咫鏡を、新たに娘の皇女である倭姫命ヤマトヒメノミコへ託し、高祖が真に安らげる場所を探してお祀りせよと命じたのでした。

こうしてヤマトヒメは天照大神をお祀りする場所を求めて大和中を旅する事になります。

笠縫邑かさぬいむらを発ったヤマトヒメはまず最初に宇陀の篠幡ささはた(奈良県宇陀市)でお祀りしますが

その後、より良い地を求めて伊賀、近江、美濃、尾張と旅をしてお祀りする神社を転々とします。

しかし大神を祀るに相応しい土地は見つかりませんでした。

この旅の中でお祀りした神社は数十にも及び、これらは『元伊勢』と呼ばれています。

ヤマトヒメの旅は続き伊勢の五十鈴川に到着し時、なんと天照大神からの信託が下ります。

「ここは海が見えてとても落ち着いた場所ですね。私はこの土地が好きです」

信託を受けてヤマトヒメはこの伊勢の地に祭殿を築き、天照大神をお祀りする本殿として伊勢神宮が創建されたのでした。

石上神宮

先代の崇神天皇の頃、神武天皇が東征の際に使用した布都御魂剣ふつのみたまを祀る為、石上神宮が創建されていました。

垂仁天皇の治世では武具を神社に奉納する習慣が生まれており

石上神宮は布都御魂剣を祀る武器に関する特別な神社であったので、天皇は一千本の太刀を製造し神宮に奉ずるよう命じました。

この事から石上神宮は神を祀る場所としてだけではなく、大和政権の武器庫としてその役割も与えられていたのでした。

さらにこの神宮の管理を任されたのは物部氏で、彼らは後に大和政権の軍事を担う事となります。

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