日本史 第9話 第2代:綏靖天皇~第9代:開花天皇

日本史

2代~9代までの天皇

9話では神武天皇後の2代~9代の天皇を取り扱います。
記紀では2代~9代の天皇の記録が少なく、多くがその出自や治めた宮、没後の陵についてのみの記述となっており情報が少ないのであまり認知されていないのが現状です。
しかし日本の正史に刻まれている以上、重要な項目である事に変わりはありません。

綏靖天皇

前回、神武天皇は橿原の宮で初代天皇として即位しました。
神武天皇の没後、綏靖すいぜい天皇の腹違いの兄タギシミミは、神武天皇の後を継ぎ権力を得ようと兄弟の綏靖天皇とカムヤイミミの暗殺を企てます。

しかしその計画はバレてしまい、綏靖天皇はカムヤイミミと共にタギシミミを討ちました。
カムヤイミミは綏靖天皇に「俺は気が弱くてとても天皇の位に就く様な器じゃない、勇気に満ちたお前なら父の後を継げるさ」と天皇の後継を弟へ託し、綏靖天皇は第2代天皇として即位しました。

綏靖天皇は都を葛城(奈良県御所市)へ移し、高丘宮たかおかのみやで政務を執り行ったとされています。
奈良県御所市にはその跡地が今も残っています。

奈良県御所市にある高岳宮の跡地

綏靖天皇は没後、現在の奈良県橿原市の陵に葬られました。

安寧天皇

綏靖天皇の没後、次に即位したのが息子の第3代安寧あんねい天皇です。

安寧天皇は都を片塩(奈良県大和高田市)に移し、浮孔宮うきあなのみやを建造し政務を執り行いました。
現在、石園座多久蟲玉いそのにますたくむしたま神社にその跡地を見る事が出来ます。

安寧天皇も没後は奈良県橿原市にある陵に葬られました。

懿徳天皇

安寧天皇の没後、第4代懿徳いとく天皇が即位しました。

懿徳天皇は軽の地(奈良県橿原市)の曲狭宮で政務を執り行いました。
今もその伝承地が住宅街の中にひっそりと残っています。

その近くには懿徳天皇の陵が鎮座しています。

孝昭天皇

懿徳天皇の没後、次に即位したのは第5代孝昭こうしょう天皇です。

孝昭天皇は掖上(奈良県御所市)の池心宮で政務を取りました。
この伝承地も残っており、現在は高校の前に史跡が置かれています。

近くには陵墓があります。歯医者さんの隣にあるんですね。

孝安天皇

次に即位したのは第6代孝安こうあん天皇です。

孝安天皇は室の地(奈良県御所市)の秋津嶋宮で政務を取りました。

コチラは先代の宮から近く、現在は有力豪族の葛城氏の古墳では?と言われている室宮山古墳の敷地内にその跡地が残されています。

またその近くの御所市内に陵も鎮座しています。

孝霊天皇

孝安天皇の後を継いだのが第7代孝霊こうれい天皇です。

孝霊天皇の娘として後に活躍する倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことが産まれました。

孝霊天皇は黒田(奈良県田原本町)の庵戸宮で政務を取り行いました。
これまで山間部に設置される事の多かった宮が平地に移った事になります。
現在は庵戸神社の中にその伝承地を見ることが出来ます。

また古事記によると、彼の息子で後に四道将軍の一人となるキビツヒコとワカタケヒコが吉備国を平定したと伝えられています。

孝霊天皇の陵は現在奈良県王寺町に鎮座しています。

孝元天皇

次に即位したのは第8第孝元天皇です。

彼は息子として後にヤマトの有力豪族となる蘇我氏と葛城氏の始祖と伝えられる彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことを授かりました。

孝元天皇は軽の地(奈良県橿原市)の境原宮さかいはらのみやで政務を執り行いました。

また古事記によると天皇は剣池之中岡上つるぎのいけのしまのうえのみささぎ(奈良県橿原市)の陵に葬られたと伝えられています。

開化天皇

孝元天皇の没後、第9代開化天皇が即位します。

開化天皇は春日の地(奈良県奈良市)の率川宮いざかわのみやで政務を執り行いました。
こちらは奈良市にある率川神社が伝承地とされています。

またすぐ近くに開化天皇が葬られた春日率川坂本陵かすがいざかわのさかもとみささぎが鎮座しており、念仏寺山古墳の系内にあります。

まとめ

という感じで9話では2代から9代までの天皇の系譜を追いました。

読んで頂いた様に記紀にはこれらの天皇の実績は乗っておらずその系譜のみが記されています。

しかしその系譜こそが重要で(かなりややこしくなるので今回は省きましたが)系譜を追うと有力な豪族の娘を皇后として迎え入れたり生まれた子供達が後の豪族の始祖になったりなど、今後の日本で活躍する一族を生み出す基礎を作っている訳です。

また結婚によって周囲の有力者たちを取り込む事で大和国を徐々に拡大させていたのでしょう、まさに前回神武天皇の言った八紘一宇の言葉通りに家族の様な国作りをしていたのですね。

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