神武東征
東征出立
前回、海幸彦とトヨタマヒメの子であるアマツヒコがタマヨリヒメと結婚し4人の子どもを産みました。
そのうちの一人が後に神武天皇となるカムヤマトイワレビコでした。(言いにくいので以下神武)
神武は九州の日向国(現:宮崎県)で生まれ育ち45歳の時、兄弟達に語ります
「私の祖先はこの葦原中国を治める為に高天原から降臨して代々善政を引いてきた。だが遠くの国では未だに争いが絶えないと言う。そこで私は遥か東にあるという大和国(奈良県)へ向かおうと思う。そこはこの世の中心と言われる美しい国だからその場所で政務を行えばきっと天下を平定し平和な世の中を作れるだろう。」
神武4兄弟の長男である五瀬命も「その通りだ、きっとそうだ」と同意し
神武は兄弟達と共に軍を率いて大和へと東征に発ちます。
孔舍衛坂くさえさかの戦い
日向国を出立した神武一行は筑紫国(福岡県)の宇佐と岡水門や安芸国(広島県)の埃宮そして吉備国(現在区分では岡山広島兵庫等に相当)で高島宮という宮殿を仮作りし東征の準備を整えます。
これらの土地では行軍の反発は起きず、むしろ天の神の子孫という事で支援を受け、これらの地で軍備を整えた神武軍は吉備国から水路で近畿へと向かいます。
浪速国(大阪府)へ辿り着いた神武軍はそこから陸路で大和を目指し、大阪と奈良の県境である生駒山の孔舍衛坂へ差し掛かった時、土地の豪族である長髄彦の軍が待ち受けていたのでした。
ナガスネヒコは神武軍が行軍してくると聞いて「天の神の子孫がやって来る理由は一つ、俺の国を奪うつもりだろう」と言い軍備を固めて神武軍の迎撃を始めます。
激しく争う両軍でしたが戦闘中、神武の兄である五瀬命(以下イツセ)が敵の矢が肘に当たってしまい重傷を負ってしまいます。
劣勢を悟った神武は「この劣勢は天の神の軍である我々が日の出る方向へ向かって敵を討とうとしているからだろう。天の意思に背く戦い方だ。ここは退いて体制を立て直し、大きく回り込んで日を背に戦えば天の神の加護の元必ず勝てる」
神武軍は撤退を始めナガスネヒコも追撃を行いませんでした。
神武が東征を始めてから初の戦は敗北に終わってしまったのです。
神武天皇の言った「天の意思に背く戦い方」とはどういう事でしょうか?
日に向かって戦ったから負けたと言うのは一見現代の僕たちからすれば迷信めいた事ですが当時の人々は自分たちのルーツであるアマテラス等の神話は信じていたでしょうし、敗北の理由を正当化し軍の士気を保つ効果もあったでしょう。
また日に向かって戦えば日光を直視する事になるので不利なので日を背に戦うのは兵法の基本だという研究もあるので理には適っていると言えるでしょう。神話だと言われればそこまでですが笑
神武は日を背に戦う為、紀伊山地を大回りする方針を固め、紀国(和歌山県)へ進軍しますが、紀国の竈山に到着した頃、イツセの容体が悪化し「俺はあんなつまらない奴と戦って死ぬのか」と嘆いてこの世を去ってしまいました。五瀬命は今もその地にある竈山神社に祭られています。
布都御魂ふつのみたま
長男の死に悲しみながらも軍は進み、名草邑という地で名草戸畔という女性の率いる軍の反抗にあい戦闘の末これを撃退します。
行軍は続き紀国の熊野へと至り「ここからは水路で進もう」と船を出しますが、暴風雨が発生し行く手を阻み、水路を断念。
神武の兄弟である稲飯命と三毛入野命は「俺たちの祖先は天の神、母は海の神なのにどうして陸も海も俺たちを阻むんだ」と嘆いて稲飯命は海に入って鋤持神となり三毛入野命は常世国へと去って行ってしまいました。
神になったり常世国へ去っていくのは神話上の表現でしょうが、ここで重要なのは神武の兄弟が潰えてしまった事でしょう。また東征の過酷さを表現したのだと思われます。
一人になった神武はそれでも行軍を続け、熊野の荒坂の津という場所で丹敷戸畔という軍の攻撃に会いましたがこれを迎撃。
しかしこれに怒りを表した土地の神が毒気を吐き神武軍には倒れるものが続出してしまい、全滅の危機が訪れてしまいます。
その時、高倉下という熊野の住民がとある剣を持って神武の元を尋ねます。
彼が言うには
「昨日夢をみたんです。その夢にアマテラス様がお出でになってタケミカヅチ様に『葦原中国で子孫が苦しんでいるから行って助けてやって来い』と言うんですね。そしたらタケミカヅチ様が『わざわざ行かなくても私がオオクニヌシと戦った時に使ったこの剣を送れば十分でしょう』と言うんです」
「そこで目が覚めたんですが驚いた事に私の隣に見知らぬ剣が置いてあったのです。これは何かのお告げだと思ってこの地で戦っていると噂の天の神の子孫であるあなたに剣をお届けに来た次第でございます」
神武はお礼を言い剣を手に取り一振りすると毒気は払い除けられ軍は活気を取り戻しました。
この剣は布都御魂と呼ばれ現在も石上神社に保管されていると伝えられています。
その夜神武は夢をみました。
夢の中でアマテラスが現れ「あなたに八咫烏を使わします。その導きに従いなさい」そう言われ目覚めると空からカラスが現れ入り組んだ熊野の地を案内し、軍はついに大和国の宇陀へと辿り着いたのでした。
兄猾えうかしと弟猾おとかし
宇陀(奈良県宇陀市付近)は兄猾と弟猾という二人の兄弟が治めていました。
神武は八咫烏を使いにだし兄弟に「宇陀は我々に仕えるか」との伝令を送りますが、兄猾は「なにが天の神の子孫だ」と反発し、宮殿に罠を張って神武を謀殺しようと計略を練りました。
しかし弟の弟猾は神武軍に仕えた方が宇陀の為だと考え、兄の計略をこっそりと神武に漏らします。
これを知った神武は部下の道臣命を使わし宮殿の罠が本当かを調べさせました。
ミチノオミは兄猾に「この宮殿は怪しいな、お前が先に自分自身で入ってみろ」と剣を押し出して追い詰め兄猾は自分の張った罠にかかって命を落とします。
弟猾は功績を認められ神武に仕える事となり、宇陀は平定されたのでした。
大和の豪族たち
弟猾が述べるには「大和国には神武様を倒そうという豪族たちがまだまだおります。強敵です。ですので神武様は天の香具山と呼ばれる神聖な山の土で祭器を作りしっかりと祈り準備を万端にするべきでしょう。大和に詳しい私が香具山の土を取ってきます」
というので神武は命じて山の土で祭器を作らせ神々を祀り軍備を整えました。
神武は再び行軍を開始し、国見丘の豪族を打ち倒し、その残党が逃げ込んだ忍坂(奈良県桜井市忍坂)では洞窟で宴を催し正体を隠して敵を招待し、酒に酔った敵を斬り倒すという計略で豪族たちを撃破。
その後も進軍し豪族の磯城彦(現在の奈良県磯城郡辺りの豪族)と戦闘を始めます。
戦に当たって神武の部下の椎根津彦は「軍を二つに分けましょう。一つは忍坂から攻め敵軍と戦いその隙にもうひとつの軍を宇陀川を渡らせ挟撃するのです」と計略を巡らして戦い磯城彦を下しました。
長髄彦との再戦
各地の豪族を下した神武軍はついに因縁のナガスネヒコと二度目の戦を始めます。
しかしやはりナガスネヒコの軍は強く苦戦を強いられる神武軍でしたが、この時金色のトビがやってきて神武の弓の先端に止まると金色の強烈な輝きを放ちナガスネヒコ軍を混乱させました。
これを機に神武軍は攻勢に転じます。

神武軍の力を見たナガスネヒコは尋ねます。
「俺の主君は天の神の子孫である饒速日命だ。だからお前たちは天の神の子孫を名乗る偽物だと思っていたが先の力を見るにそうとも思えない、天の神の子孫は二人居るのか?」
神武は答えて「天の神の子孫は一人じゃない。貴方の主君が天の神の子孫だと言うのが本当なら証拠を見せて欲しい」
そう問われたナガスネヒコは主君ニギハヤヒの天羽々矢を見せ神武は「これは間違いない」と認め自身の持つ天羽々矢を見せ疑いを解きます。
ナガスネヒコは主君のニギハヤヒに神武は本物の天の神の子孫だと伝えるとニギハヤヒは「それならば国を明け渡しても良いだろう」と神武を認めます。
しかしナガスネヒコは主君の意に背き抗戦の構えを取ったためニギハヤヒにより殺害されてしまい、ニギハヤヒは同じ天の神の子孫である神武に忠誠を誓いました。
このニギハヤヒは古墳時代に登場する物部氏の祖先とされています。
日本建国
大和国平定
最大の敵であるナガスネヒコ軍を破った神武達は大和国の平定事業に移ります。
まず豪族達の治める波哆の丘岬(奈良県郡山市付近)、和珥(奈良県天理市)、長柄の丘岬(奈良県御所市)を攻めて彼らを撃退しその土地を従える事に成功します。
そして最後に土蜘蛛と呼ばれる部族が住む葛城(奈良県御所市)を攻め落とし、豪族たちをすべて取り込み大和国を平定し、さらに大和国の神である大物主神の娘と結婚します。これにより大和国を治める正統性を獲得しました。
ここに日向国から始まった6年にも及ぶ東征を完結させたのでした。
橿原の宮
大和国を平定した神武は大和に都建設の詔を発します。
そして橿原(奈良県橿原市)の地に日本最初の都が誕生し大和国を建国。これが現代日本のルーツであると考えられます。
この都があった場所には現在橿原神宮が設置され、神武天皇をお祀りする神社として親しまれています。
その後神武は天皇として即位し、現代まで続く皇室の初代天皇となりました。
神武天皇は建国に際し、以下の宣言を行いました。
日向から東征して6年が経ち、天の神の加護のおかげで敵は討ち果たした。
しかしまだ葦原中国は完全に平定されておらず、邪悪なるモノが根強く残っている。
一方で、大和周辺の国々は比較的安定しており、反乱も起きていない。
世の民は古い風習に囚われているが心は素直だ、今ここに都を築き民の利益となるように導けば必ず良い方向に進むだろう。
そして世の国々を一つにまとめて統一し、まるで一つの家族の様な素晴らしい国を目指したいと思う。
この建国宣言は『八紘為宇』と呼ばれています。(八紘一宇とも書く)
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