浸透する仏教
蘇我馬子
572年、欽明天皇の崩御後、第30代:敏達天皇が即位します。
敏達天皇:明治天皇聖徳奉讃会 – 『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
天皇は蘇我稲目の息子である蘇我馬子を新たに大臣へと任命しました。

蘇我氏は大和内で財務や渡来人の管理を任されていた為、その影響力は大きく重要なポストに座っていたのだと思われます。
また渡来人を管理するという立場上外国の文化に触れる事が多く、仏教を学ぶ事は自然の成り行きだったと言えるでしょう。
馬子は父の稲目の代から仏教を信仰する許可を得ており、渡来人の娘を尼に出家させたり、屋敷内に仏像を設置する等、徐々に仏教の布教体制を整えていました。
天然痘の蔓延
馬子にとっては間の悪い事に、この年大和の国中で天然痘が大流行し、命を落とす人々が続出してしまいました。
廃仏派の物部氏や中臣氏は『疫病の原因は他国の神を崇めたせいだ』として仏教の廃絶を進言します。
敏達天皇自身も仏教に消極的であった事もあり、仏教の破却を命じました。
命を受けた物部守屋はさっそく蘇我馬子の元へ赴き、仏像を破壊し尼を捉えて厳しい処罰を与える等、徹底して仏教を破壊しました。

蘇我稲目の代から続く、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の政争は物部氏の有利で進んでいました。
物部守屋と蘇我馬子の仲は相当悪く、『日本書紀』によると敏達天皇のお葬式で弔辞を読む際、お互いにその姿を見て
「馬子は小さくて雀の様だ」
「守屋は緊張で震えていて鈴をつけえたらシャンシャンと面白いだろうなぁ」
と罵り合った事が記録されています。
また、この頃中国では王朝が分裂し激しい争いが繰り広げられていた中『隋』が約300年ぶりに中華を統一し巨大国家を築いていました。
崇仏派の天皇
仏教を巡る争いの潮目が変わったのは、585年の蘇我稲目の孫である第31代用明天皇が即位した時でした。
用明天皇:パブリック・ドメイン, リンク
Michey.M – 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, リンクによる
蘇我稲目は自身の娘を天皇の后として嫁がせる事で蘇我氏の血を皇室に入り込ませる計画を持っていました。
ここに来てその計画が功を成し、ついに自身の孫が天皇として即位する事になります。
そして蘇我系の血筋である用明天皇はもちろん崇仏派であり深く仏法を信仰していたので、ここより徐々に国内に仏教が浸透していく事になりました。
しかし用明天皇は病によって在位わずか2年で崩御となってしまいました。
用明天皇は病床に伏している時、「私は仏法に帰依したい」と発言しており、この時には仏教は宮中にも入り込んでいたのだと考えられます。
古墳時代の終わり
最後の前方後円墳
第30代:敏達天皇が、前方後円墳に埋葬された最後の天皇となりました。
続く31代:用明天皇からは、八角墓など、中国の様式を取り入れた形の陵墓へと変動して行く事になります。
この背景には外国の進んだ技術や文化を取り入れ始めた事、仏教の普及により寺院の建立によって使者の魂を鎮められると考える様になった事等があり、前方後円墳が作られなくなる事はいよいよ時代が当時の人々の文化が変わり、いよいよ時代が移り変わっていく事を表しているのかもしれません。
皇位継承の政争
用明天皇の崩御後、その皇位を継ぐものとして物部守屋は穴穂部皇子を推薦しました。
対して蘇我馬子は泊瀬部皇子を推薦し蘇我氏と物部氏の対立は本格的に政治の表舞台へと現れていく事になります。
守屋が穴穂部皇子を皇位に就かせるように工作している事を知った馬子は、先手を打って穴穂部皇子の宮に兵をけし掛け暗殺してしまいます。
丁未の乱

587年、馬子はついに物部氏を滅ぼす決断を下しました。
仲間を募った馬子は物部守屋討伐軍を編成し河内国(大阪府)の物部邸へと軍を派兵します。この中には用明天皇の子であり、後に日本初の摂政となる聖徳太子の姿もありました。
大和政権内で軍事を担当していた物部氏の抵抗は凄まじく馬子は大苦戦を強いられますが、聖徳太子の活躍もあり最終的には馬子側の勝利で終わります。
『日本書紀』によると
聖徳太子は馬子軍が苦戦する中、木製の仏像を作り『この戦いに勝利すれば寺院を建立して仏法の普及に努める』と祈願した所、馬子側の放った矢が物部守屋に命中し守屋は死亡。
物部軍は総崩れになったと伝えられています。
こうして2世代間に渡った蘇我氏と物部氏の戦いは決着し、これ以降蘇我氏は大臣の地位と仏教の先駆者、そして天皇の外戚という権力を持ってその黄金期を迎える事になるのでした。
日本初の寺院
丁未の乱に勝利した馬子は、自身が推薦していた泊瀬部皇子を天皇として擁立します。
第32代:崇峻天皇の誕生です。彼も蘇我稲目の孫であり、蘇我系の天皇でした。
崇峻天皇:明治天皇聖徳奉讃会 – 『皇国紀元二千六百年史』国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
さらに馬子は自身の氏寺として日本初の伽藍を備えた本格的な寺院として飛鳥寺を建立します。
飛鳥寺は蘇我氏の権力の象徴であると同時に、仏教の学習など仏教布教の中心的役割を果たしていく事になります。

飛鳥寺は海外から見ても最先端の寺院であり、当時すでに海外の技術や文化を取り入れていた事が分かります。
崇峻天皇の暗殺
崇峻天皇を擁立したものの馬子には心配の種がありました。
それは崇峻天皇が大伴氏の娘との間に子をもうけた事です。
もしその子が次代の天皇となれば、蘇我氏の天皇の外戚という地位は失われてしまう事になるのです。
これを危惧していた馬子の元に崇峻天皇が「いつか私の憎いと思う相手を切り伏せたいものだ」と発言したという知らせが入り、(それはもしや私の事では?)と天皇に警戒感を抱くようになります。
元々崇峻天皇と馬子には政治的対立があったのではという説もあります。
こうした状況の中、馬子は天皇の暗殺と言う前代未聞の決断を下しました。天皇を亡き者にする事で蘇我氏に有利な皇位の継承を目論んだのです。
天皇の臣下が天皇を暗殺事態は後にも先にも例がありません。
第20代:安康天皇も暗殺されていますが、これは同じ皇族によるものでした。
そして592年、ついに蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺を決行しました。
飛鳥時代へ
暗殺と同年、馬子は自身の姪を天皇へ擁立します。第33代:推古天皇の誕生です。
そしてこの時、宮を飛鳥(奈良県明日香村)へと移ます。
この時より政治は飛鳥の地を中心に動き始め、時代は飛鳥時代へと移っていくのです。






