皆さんは「八紘一宇」という言葉をご存知でしょうか?
「八紘一宇」とは日本の正史である【日本書紀】にて初代天皇が日本を建国した時に、平和の願いを込めて発した詔の事で、永らく日本の理念を表した「建国宣言」や「建国理念」として理解されてきました。
戦前までは、戦時中のスローガンとして使われる程一般的な言葉でしたが、戦後の戦勝国の統治によって、本来の平和の意味は歪曲され「悪の代名詞」の様に逆の意味として扱われるようになってしまいます。
そしてこの「悪の代名詞」は淘汰され、日本の建国理念であるにも関わらず多くの日本人はその存在自体を知らないという時代となりました。
それどころか国会でこの言葉を使った議員がメディアから袋叩きに会うと言う事態まで発生しています。
この記事では、誤解されてしまっている「八紘一宇」の成り立ちと本来の意味、何故「悪の代名詞」となってしまったのかを解説していきます。
八紘一宇の成り立ち

まずは「八紘一宇」の成り立ちについて見て行きましょう。
この言葉が登場するのは我が国の正史【日本書紀】です。
【日本書紀】の中で、初代天皇である神武天皇は、乱れている世の中を平和な世の中として治める為に現在の宮崎県から、奈良県まで遠征を行い、旅の果てに奈良県の橿原という場所で大和国(日本)の建国の詔を発しました。
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この建国の詔の中で、神武天皇は次の様に述べています
「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇となさん。また可からずや」
※「国を統一して全ての人が同じ屋根の下に住む家族の様に仲良く過ごす。良い事だ。」
皇室の初代天皇が建国の際にこの様な現代にも通用する理念を打ち出していた事から、昭和の時代に宗教家である田中智學が上記の建国の詔の原文から「八紘一宇」という言葉を造語しました。
次はその意味について詳しく見ていきましょう。
「八紘一宇」本来の意味
さて、成り立ちに続いて今度は「八紘一宇」の意味する所を見ていきましょう。
まずはこの言葉を「八紘」「一宇」の2つに分けてそれぞれ意味を考えてみます。
「八紘」の解説

「八紘」とは現代で言う所の「四方八方」の様に全ての方角、つまり全体を指す意味と考えられています。
ちなみに「八紘」は原文では「あめのした」と読み、「あめのした」⇒「天の下」⇒「天下」とやはり全体を指す言葉となります。
「一宇」の解説

続いて「一宇」について見ていきましょう。
この宇と言う文字は原文で「いえ」と読み、これはそのまま現代でいう「家」の事です。
つまり「一宇」で「一つの家」と言った意味になります。
これで何となく言葉の意味が見えてきましたね、「八紘」は「全体」「一宇」は「家」を指すのでこれを合わせて「全体を一つの家とする」という意味となります。
本来の意味

それでは全体とは何を指すのでしょうか?
神武天皇は建国の詔の中で以下の様な事を言っています。
日向から東征して6年が経ち、天の神の加護のおかげで敵は討ち果たした。
しかしまだ葦原中国は完全に平定されておらず、邪悪なるモノが根強く残っている。
一方で、大和周辺の国々は比較的安定しており、反乱も起きていない。
世の民は古い風習に囚われているが心は素直だ、今ここに都を築き民の利益となるように導けば必ず良い方向に進むだろう。
この資料から分かるように神武天皇の時代、日本は土着民等による地域支配の戦乱期だったのでしょう。
神武天皇はそんな葦原中国(日本)を憂いて「これからは全ての人が家族の様に平和に暮らそう」と述べたのです。
つまり、ここでの全体とは日本のすべての国民を指し、神武天皇が言いたかった本来の意味は「日本国民全員が、一つの家に住む家族のように仲良く平和に暮らそう」となるのだと考えられます。
日本の建国宣言
このように神武天皇の建国の詔は、戦乱期にあって日本を建国した際の平和宣言でした。
これは日本の建国宣言と言っても良いでしょう。
建国宣言から生まれたのが「八紘一宇」という言葉であり、そこには平和の意味が込められていました。
大東亜戦争期に置ける「八紘一宇」の利用
八紘一宇の広がり

時代がずっと下って昭和の時代になると、宗教家である田中智學らによって、
この建国の詔が再評価され、「八紘一宇」という言葉が広く用いられるようになりました。
この言葉は新聞・ラジオ・歌詞・記念碑など多様なメディアで反復され神武天皇の建国宣言は多くの人に知られていきます。
また、1940年には皇紀2600年を祝して宮崎に八紘一宇の塔が建築され、
この塔は全国から素材となる石を集めて建てられた「八紘一宇の精神を体現した」塔でした。
大東亜戦争におけるスローガン
「八紘一宇」が広がるにつれて、いつしかこの言葉は大東亜戦争におけるスローガンの様に扱われるようになります。
神武天皇の時代は海外との交流が少なく、八紘一宇の「全体」とは日本全体の意でしたが、昭和の頃には既に世界はグローバル化していました。
従って時代に合わせて全体とは「世界中の民族」だと解釈し「世界民族の協和」という新たな価値観として浸透する事になります。
当時闘っていた大東亜戦争は白人によるアジアの植民地支配に対抗する為の闘いという側面もあり、世界民族協和の価値観と合致し、さらに深く国民の間に広がっていきました。
戦後の歪曲
東京裁判での歪曲

写真秘録『東京裁判』、講談社、第1刷 – http://www.tante2.com/tokyosaiban-tenno-d.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる
しかし戦後、東京裁判が開かれると、連合国側は自らの正当化の為日本を侵略国家と決めつけ、「八紘一宇」はその侵略精神を育んだプロパガンダであったとして扱われるようになりました。
「日本国民が一つの家に住む家族のように仲良く平和に暮らそう」と言う本来の意味は「全ての民族を家族の様に扱う為に侵略を持って統一する」という侵略思想として真逆の解釈を受けてしまったのです。
その後の八紘一宇
裁判後「八紘一宇」は侵略の象徴語として単純化されていきます。
東京裁判自体が「勝者の裁き」として批判される中で、「八紘一宇」は戦後教育やマスメディアを通じて「日本の侵略思想の核心」として広く受け取られるようになりました。
こうしてこの言葉は一人歩きを始め、いつしか「悪の代名詞」の如く扱われる様になってしまったのです。
2015年には、とある国会議員が「八紘一宇」について言及した事からマスメディア等から袋叩きにされてしまう事案がありました。
現在ではそれ程までに意味が誤解されて広まっているのです。
八紘一宇を正しく理解するために
「八紘一宇」は、本来『日本書紀』に記された神武天皇の建国理念に由来する言葉であり、「すべての人々が一つの家族のように平和に暮らす」という統合と共存の思想を表していました。
しかし戦後の東京裁判や戦後教育を通じて、「八紘一宇」は侵略思想の象徴として単純化され、その歴史的背景や本来の文脈が十分に伝えられないまま今日に至っています。
重要なのは、「八紘一宇」という言葉そのものではなく、それがどのような時代背景の中で、どのように解釈・利用されてきたのかを正しく理解することです。
本来の意味に立ち返ることで、「八紘一宇」は日本の建国思想の一つとして、現代においても改めて考える価値のある言葉であると言えるでしょう。


