日本史 第13話【古墳時代4】

日本史

※古墳時代(2世紀〜6世紀)の日本には文字資料が乏しくこの時代に何があったのかは学者の間でも意見が分かれており定かではありません。
当サイトでは日本書紀に準拠しております。

成務天皇

行政整備

皇位を引き継ぐ予定であったヤマトタケルが死去した事で、急遽天皇として即位したのが成務天皇せいむてんのうでした。

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景行天皇けいこうてんのうとヤマトタケルの活躍により、大和は東日本から九州までの日本列島の大部分を統合しましたが、その統治は決して簡単なモノではありません。ましてや日本初の統一国家となればなおさらです。

この問題に挑んだのが政務天皇でした。

成務天皇は全国に『くに』と『あがた』を設置し、それぞれを治める首長『国造くにつくり』と『県主あがたぬし』を定めました。

こうして行政区分を整理したことで地方管理が行き届き大和政権の統治基盤がますます強化されたのです。

神功皇后

九州平定へ

成務天皇崩御の後、本来皇位を継承するはずだった、ヤマトタケルの王子が即位します。第14代仲哀天皇ちゅうあいてんのうです。

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即位後、紀伊国に訪れていた天皇の元に、熊襲が再び背いたと言う知らせが届きます。

そこで敦賀に居る妃、神功皇后じんぐうこうごうに使いを出し、自身と皇后がそれぞれ軍を率いて九州の熊襲の討伐に出陣するよう求めました。

こうして組織された遠征軍は、『物部胆咋連もののべいくいのむらじ』や『大伴武以連おおともたけもつのむらじ』などの飛鳥時代に活躍する氏族なども参加しておりかなり大規模な軍容だったと考えられます。

神功皇后

皇軍が佐波さば(山口県)に着いた頃、この周辺を支配していたと思われる豪族熊鰐わにが自ら大和への帰順を申し出て、九州までの案内役を買って出ました。

熊鰐の案内で彦島まで軍を進めた時、伊都国(福岡県糸島市一帯)を治める豪族五十迹手いとてが天皇の元に訪れます。

五十迹手いとて熊鰐わにと同様に「天皇に天下を平定して頂きたい」と大和への帰順を申し出てきました。
この時代は、九州を完全に平定出来たとは言えず特に北西部はまだ大和政権には組み込まれておらず、政権争いがあったものと考えられます。

熊鰐わに五十迹手いとてもその争いに敗れたか、または争いを鎮めるために巨大国家の手によって戦いを終結させる事を望んだのかもしれません。

こうして闘わずして九州北部の平定に成功した天皇は、いよいよ熊襲の討伐に向けて南下を開始します。しかしこの時、神功皇后に神が憑依し「今は熊襲を攻める時ではない、朝鮮を平定せよ」との神託が下りました。

しかし天皇はこの神託を無視して熊襲攻めを決定。南下して熊襲を攻撃を開始しますが、予想以上の反抗に苦戦を強いられます。

そして熊襲との激戦が続く中、不幸にも仲哀天皇は病を患いそのまま病没してしまいます。

妃である神功皇后は「天皇の死が広まれば天下は混乱する」と崩御の秘匿を命じ、武内宿禰たけのうちのすくねに仮葬を行わせました。

全権を引き継いだ神功皇后は、彼女の指揮で熊襲攻めを続行し仲哀天皇の果たせなかった熊襲討伐を成し遂げます。

さらにそのままの勢いで、九州で最後まで大和政権へ従わなかった山門やまと(福岡県南部辺り)に侵攻し、九州の完全なる平定を完了。この時九州は日本の一部となりました。

三韓征伐

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歌川国芳 -朝鮮遠征 Waseda University Theatre Museum, Ukiyo-e.org A. [1] B. [2] C. [3], パブリック・ドメイン, リンクによる

九州を平定した神功皇后は、先の神託の通り次は朝鮮半島への進出に乗り出します。

「神託により海の向こうの国を討ちます。私は女ですが軍を起こし皆さんの助けを借りて挑みましょう。もし事が成れば皆様の功績、成らなければ私一人の罪です。覚悟は決めたので皆で海を渡りましょう」と詔を発し朝鮮への進出を始めました。

皇后の軍には『投降兵を殺しては成らない』『婦女を暴行してはならない』等の厳粛な軍律があったとされています。

皇軍はまず朝鮮半島の新羅を目標に定め、対馬の鰐浦から船団を進めました。

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CC 表示-継承 3.0, リンク

この時、風の神や波の神が皇軍に味方し船団は怒涛の勢いで新羅へ進みます。に到着すると、波や嵐と共に近づいて来る皇軍を見た新羅王は「大和は神の国だ 」と戦意喪失。新羅の地図や戸籍を差し出し降伏しました。

新羅が降伏した事を知った朝鮮半島の百済と高句麗は「とてもかなう相手ではない」と判断し、自ら皇軍に下りました。朝鮮三国は大和に朝貢を絶やさない事を約束し神功皇后の朝鮮攻略は完了しました。
この一連の事業は、朝鮮の三つの国を属国とした事から、三韓征伐と呼ばれています。

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歌川国芳 – 日本国開闢由来記, パブリック・ドメイン, リンクによる

皇太后へ

朝鮮から帰還した神功皇后は、宇瀰うみ(福岡県宇美町)で男の子を出産します。次代応神天皇です。

この知らせは留守政府を預かっていた仲哀天皇の御子である籠坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこに届きます。

留守政府として長年行政を行っていた彼らは、新しい御子の誕生で自分たちの皇位継承と権力基盤が危うくなる事を危惧し、皇后の御子を亡き者にしようと兵を起こしました。

対して皇后から反乱鎮圧の命を受けた竹内宿禰は、兵を率いて宇治へ赴き、待ち構えていた反乱軍と戦闘を開始。

この戦いは竹内宿禰の策謀により皇軍が圧倒し、反乱軍は壊滅、京都宇治から近江の逢坂まで命からがら撤退するも近江の逢坂でついに追い詰められ、散々に討ち取られたと言います。

こうして無事大和へ帰還した神功皇后は正式に皇太后と認められ、皇子が成長するまでの間、代わりに政権を握る事となりました。

日本書紀では日本初の摂政として扱われ、摂政元年と記載されています。

半島南部の獲得

この時代の日本は朝鮮半島から鉄資源や大陸の最先端等を取り入れており、半島との関係は重要な政治課題の一つでした。

三韓征伐が成った後、徐々に半島との交流が盛んになろうとしていたそんな折、百済と新羅が朝貢にやって来ます。

献上物の中身を確認してみると、新羅の朝貢物は豪華なモノが目立つのに比べ、百済の朝貢物は見るからに貧相でした。あまりに貧相だったので神功皇后が百済の使者に訳を尋ねると、使者は「新羅に朝貢物を取られてしまった」と大和までの旅路の苦難を語ります。

この件を調査すると、確かに新羅が百済から献上物を奪い取ったという事実が判明しました。

皇后は朝鮮半島の経営を確かなものとする為、和を乱す新羅を再征伐する事を決意。百済と連合して新羅へと攻撃始めるのでした。

大和と百済の連合軍は新羅を打ち破り服属させ、次いで朝鮮半島南部の7ヵ国を平定し日本の直轄地と定め、半島西南部の島『済州チェジュ島』をも獲得しこの島を百済領としました。

この時平定した7か国はいわゆる任那みまなではないかとの説もあります。
任那は朝鮮半島にある日本領と考えられますが、学者の間での意見は分かれており定かではなく、またどこまでが任那領であったかも様々な学説があります。
しかし少なくとも日本はこの地にかなりの影響力を持っていた事は確かであり、朝鮮南部からは大和政権の支配範囲を示す前方後円墳も発掘されています。

任那の領土解釈には諸説がある。


Wikimedia Commons – File:Korean Peninsula topographic map.png, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

後に百済王はこの事を「東にある天皇の治める国は神の国だ、我々百済に新たな島を与えてくださり国の基はより強固となった、これからも朝貢を絶やさないであろう」と語っています。

こうして百済や新羅の属国に加え、朝鮮南部に直轄地を得た大和はここを朝鮮半島の経営拠点として大陸との交易をより活発なものにしていきます。

神功皇后崩御

百済は再び大和へと朝貢を行い『七枝刀』を始めとする宝物を献上します。

大和と百済はより密接な関係へと発展していくのでした。

七枝刀

この『七枝刀』は現在も石上神宮にて大切に保管されています。

この数年後、神功皇后は崩御となりました。
仲哀天皇の後を継いで九州を平定し、朝鮮半島にまで大和勢力を広げた神功皇后は、歴代天皇には数えられていないものの、それに匹敵するほどの偉業を成した大偉人と言えるでしょう。

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