日本史 第10話 古墳時代1

日本史

崇神天皇の即位

疫病蔓延

第9代開化天皇が崩御すると続いて第10第崇神すじん天皇が即位しました。

彼は記紀に多くの実績が記されている素晴らしい天皇となりますが、即位後からの道のりは険しいものでした。

崇神5年、大和の国中に疫病が蔓延してしまいます。日本書紀にはその死者数は民の半分に登ると記録されています。実際に国民の半分が死亡すれば国家滅亡と言えるので誇張表現でしょうがそう言いたくなる程のパンデミックだったのでしょう。

この疫病は祟りが原因に違いないと考えた崇神天皇は、それまで自身の御殿にお祀りしていた高祖の天照大神あまてらすおおみかみ倭大国魂やまとのおおくにたまの二人の神を相応しい場所にお祀りする事で病を退けようと試みます。

天照大神は豊鍬入姫命トヨスキイリビメノミコトに命じ大和の笠縫邑かさぬいむら

倭大国魂は淳名城入姫命ヌナキイリビメノミコトに自身で祀るように命じました。

しかし疫病は一向に治まりません。

次の手として疫病の対策を占った所、倭迹迹日百襲姫命ヤマトトトビモモソノヒメノミコトに大物主神が憑依し「私を正しく祀れば疫病は退けられるだろう」と予言を残したので、大物主神おおものぬしのかみの子孫であるオオタネコを祭神とし、三輪山に祭殿を築いて祀ると、疫病はたちまちの内に静まり、五穀は実り民は潤い大和に平和が戻ったと言います。

武埴安彦の反乱

大和国の皇族である大彦命オオヒコノミコトは、和珥坂わにさか(奈良県天理市付近)と言う地で一人の美しい少女を見かけます。

少女は崇神天皇が殺されるという奇妙な歌を歌っていたので不吉を感じた大彦命はこれを朝廷に報告します。

報告を受けたヤマトトトモモソノヒメは「これはきっと武埴安彦タケハニヤスヒコが謀反を企てているに違いない、近頃彼には不審な動きがある」と謀反を看破しました。

予想通りタケハニヤスヒコは軍を率いて都に攻め上がって来たので崇神天皇は吉備津彦命キビツヒコノミコト彦国葺ヒコクニブクに命じてこれを迎え撃ちました。

前方後円墳

タケハニヤスヒコの討伐後、ヤマトトトモモソノヒメの元に以前自身に憑依した大物主神が度々訪れてくるようになりました。

ですが大物主神がやって来るのは真夜中だけであり彼の姿を見ることは出来ません、いつも暗闇の中会話するだけです。

一目姿を見たいと願ったヤマトトトモモソノヒメの願いを聞き入れた大物主神は
「分かった、そこまで言うなら姿を見せよう。だが絶対に私の姿に驚かないように」

そう言うと大物主神は姿を現しますがそこには巨大な蛇が居たのです。

ヤマトトトモモソノヒメは驚愕して腰を抜かして倒れこんでしまい、さらに運の悪い事に地面に立ててあった箸に突き刺さって命を落としてしまいます。

人々は偉大な皇族の死に悲しみ彼女の為に巨大なお墓を建造しました。

これこそが今に残る箸墓古墳であり、最古級の前方後円墳ではないかと考えられています。
(箸墓古墳の詳細は↓)

大和の拡大

四道将軍

瓊瓊杵尊が天照大神から葦原中国を豊な素晴らしい国へ統治せよとの勅命を受けてから天皇家は代々その使命を受け継いで来ました。


神武天皇が大和国を平定して以来着々と国力が増して来ていた事から、崇神天皇はついに本格的な領土拡大を決定します。

天皇は四人の将軍を任命しそれぞれ
【東海道】【北陸道】【山陽道】【丹波国】への遠征を命じます。

結果、四人の将軍は見事に任を達成し大和は四方にその勢力を大きく拡大させたのでした。

大和国が勢力を拡大していく様子は記紀に記されていますが、いつどの様にして拡大したのは記紀の中でも話の混同などがありよく分かっていません。

しかし大和が3世紀から4世紀にかけて巨大政権を確立していた事は確かであり前方後円墳をはじめとする考古学的事実と一致しています。

政治の安定

崇神天皇は大和で初めて人口の把握に乗り出しました。
国には男と女が何人いるのかを調査し、それぞれに税を課すことを決めたのです。


また沿岸部の民の為に輸送用の船舶の造船を始め、さらに水源のない地域では農業が苦しい事を聞いた天皇は灌漑工事を行い、溜池を建設する事で水不足にも対処しました。

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Saigen Jiro投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

これらの事業によって政治は安定し国は富み人々の暮らしは飛躍的に発展していきました。

任那からの使い

当時、朝鮮半島南部に任那みまなという国がありました。

その任那から朝貢を求めてソナカシチと言う名の使者がやって来ます。

これは日本書紀にて初めて外国が登場した場面です。

崇神天皇の治世ではこれ以上任那との交流の記録はありませんが、次代の垂仁天皇の代から任那や朝鮮半島とは密接に関わっていく事になります。

3年後、崇神天皇は崩御し山邊道勾岡上陵やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ(奈良県天理市)へ葬られました。

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