神武天皇陵

史跡

神武天皇陵とは

奈良県橿原市。

畝傍山のふもとに静かに佇む「神武天皇陵」は橿原神宮のすぐそばに鎮座し、日本最初の天皇とされる神武天皇の御陵です。

正式には「畝傍山東北陵」と称され、古代日本の建国神話の終着点として、今もなお多くの人々が参拝に訪れます。

そもそも神武天皇とは

神武天皇は、古事記・日本書紀に記された日本神話に登場する初代天皇です。

高天原の血を引く天照大神の子孫とされ、九州・日向の地から東征の旅に出て、様々な困難を乗り越えた末に、大和国(現在の奈良県)平定し、日本の建国を宣言しました。

その東征の最後の地が橿原であり、ここで即位した神武天皇が現代の日本皇室の祖とされているのです。

詳しくは↓をご覧下さい。

歴史

江戸時代

神武天皇の陵が公式に定められたのは以外にも江戸時代から明治にかけての事でした。

特に江戸時代後期には、国学者や儒学者の間で記紀神話が再評価される流れの中、神武天皇の御陵の所在に関心が高まりを見せます。

幕末には尊王攘夷思想の高まりとともに、「建国の祖」である神武天皇の存在が再び脚光を浴び、この地は御陵としての重みを増していきました。

そこで問題となったのは神武天皇の陵の所在地でした。古事記には陵について以下の記述があります。

畝傍山の北方、白檮尾かしのおの上に葬った。

この記述を基に当時の学者たちが研究を続けいくつかの候補地が挙げられましたが
1863年、孝明天皇は現在の地を神武天皇の御陵と正式に治定しました。
これにより、畝傍山東北陵は朝廷が認める由緒正しい御陵としての地位を得ることになります。

近代

明治維新後、新政府は天皇を中心とする国家体制を築き上げる中で、歴代天皇の陵墓を整備・保護する国家事業に着手します。

1874年(明治7年)以降、宮内省の指導により神武天皇陵の整備が本格的に開始され、墳丘の整形、玉垣の設置、参道や拝所の整備が進められました。

神武天皇を祀る橿原神宮も1889年に創建され、神武天皇陵とともに「建国の聖地」として国民の崇敬を集めるようになります。

昭和初期に入ると、神武天皇陵は国家神道の象徴としてより一層の重みを持つようになります。

1940年には神武天皇の即位を記念する「紀元2600年」の一大国家行事が橿原神宮で行われ、全国から多くの人々がこの地を訪れました。
当時は、軍や官僚の参拝も奨励され、忠君愛国の象徴としての役割を果たしていたのです。

戦後から現代

戦後、日本は象徴天皇制へと転換し、国家神道は廃止されましたが、神武天皇陵は今もなお宮内庁によって管理される天皇陵のひとつとして、厳重に守られています。

発掘調査などは行われておらず、その内部構造については明らかになっていないものの、陵墓の神聖性は保たれ続けています。

現在では、歴代天皇によるご参拝や、毎年4月3日に行われる「神武天皇祭」が続けられ、国家的儀式の場としての役割も維持されています。

また、歴史ファンや神話に興味をもつ人々が訪れる場所としても親しまれ、静謐な空気の中に「日本のはじまり」を感じることができる特別な聖地となっています。

学術的には、陵墓が本当にこの地にあるかどうかについては確証はありません。
考古学的な調査(発掘調査など)は宮内庁の方針により原則行われておらず、内部構造や副葬品の有無なども不明のままです。

神武天皇陵の観光

畝傍山東北陵(神武天皇陵)はJR『畝傍駅』、近鉄『畝傍御陵前駅』から徒歩5分、また橿原神宮からも徒歩で辿り着く事ができます。

天皇陵の入り口。国道に面した場所にあります。

正式な陵には宮内庁の看板があります。

整備された森の中を歩くと前方に陵が見えてきました。

こちらが陵の本体。厳重に管理されています。

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