日本史 第7.5話 ②弥生時代

弥生時代の始まり

米の伝来

縄文時代末期、大陸からある革命的な技術がもたらされます。

稲作技術です。

この技術の伝来によって当時の日本人の生活や文化は一変する事になりました。

稲作はその名の通りお米を生産する技術で、米の生産が可能になった彼らは食料の備蓄が可能となりました。

それまでの狩猟生活では生肉などの保存はせいぜい数日程度しか出来なかったものが、米の保存となればかなり長期間の保存が可能となるので安定した食料の確保が実現したのです。命がけの狩猟を行わずとも生きていけるという現実は彼らにとっては夢の様だったでしょう。

この素晴らしさに気づいた彼らは稲作に重きを置く為、これまで丘の上に構えていた住居から川などの水源があり田んぼを作れる平地へと移住を始め、狩猟や採集の頻度を減らし徐々に稲作を行うようになりました。そしてお米は栄養価も高かったので、稲作が普及するにつれて日本の人口はどんどん増加していく事になります。

この様に、稲作が普及して狩猟経済から農耕経済へ移行した時代を弥生時代と呼びます。

日本史第3話にて記紀ではスサノオは食物の神を斬って五穀を手に入れました。

実際には大陸から伝わったモノですが、神話上で神から授かったものとして伝えられるほど当時の人にとって米は重要で神聖なものだった事が分かります。

階級の発生

稲作は多くの田を管理しなければいけない性質上、多くのマンパワーが必要となります。

そこで彼らは縄文時代は家族単位で暮らしていた状態から他の家族と共に田を経営する事となりこれが集まってなどの共同体が生まれていく事になります。

しかし、水源や耕作出来る土地は有限です。

結果的に有限の資源を巡って村どうしの争いが起こり、この争いで勝った村は多くの資源を手に入れさらに巨大な村となり、やがてと呼ばれる大きな共同体となり他の共同体を従えるクニまでもが出現しました。

ところで米は備蓄が可能です、この時代は米こそが富、つまり富の備蓄が可能となった訳です。多くの米を手に入れる為には多くの田園が必要ですのでそれを多く所有している者には富が集中しその富を使って人や村などを従え更なる資源を手に入れることも可能でした。
資本主義的な原理が働いた訳です。
こうして富を手に入れ力を付けた者たちが後の豪族となったのでしょう。

こうして平和だった縄文時代とは打って変わり、社会には階級が発生し、次第に多くの国が出現し互いに資源を求めて争いあう時代へ突入するのです。

倭国大乱

漢書地理志

中国の歴史書『漢書地理志』には紀元前1世紀頃の日本の様子として以下の記述があります。

楽浪海中に倭人と呼ばれる民族が居る。この民族は百国程度に分かれている。定期的に貢物を持ってきている。

この記述から紀元前1世紀には既に国としての共同体が数多く乱立していた事が読み取れます。
中国へ貢物を持って行ったとの記述がありますが、これを朝貢と呼び、朝貢の見返りに自分が支配する地域の王だと正式に任命される事で他国より優位に立つ事ができました。
この朝貢と王の任命の関係を冊封さくほうとよびます。
朝貢した国はこの冊封関係を気づくことを目的としていたのでしょうが、ここでは王に任命されたとの記述が出てきていません。

※ちなみに楽浪海中とは楽浪郡(現代の北朝鮮辺り)から海を越えた先の事を指していて地理的に考えるとちょうど日本を指している事になります。

後漢書東夷伝

続いて同じく中国の歴史書『後漢書東夷伝』を見ていきましょう。この歴史書には中国の後漢時代(25~220)頃の日本の様子が記されています。

57年、倭にある奴国という国が我らに貢物を捧げに来た。使者は大夫と名乗った。
奴国は倭の南に位置する国だ。
皇帝は奴国に金印を授けた。

107年、倭の国王である帥升の一行が奴隷160人を献上し皇帝に謁見を求めた。

桓帝~霊帝の間、倭は大いに乱れお互いに攻め合い争いが絶えず、争いを治める統治者が居なかった。

まず西暦57に奴国が中国の皇帝から金印を授かったと記述されています。
この金印は江戸時代に発見されており、そこには【漢委奴国王】と記されていた事から奴国が中国との冊封関係にあったと考えられます。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0

107年には帥升が皇帝に謁見を求めたと記述されていますが、果たして謁見できたのか、冊封を得られたのかは分かっていません。
また倭の国王と記述されていますが、これが当時の日本なのか、奴国の様な国の一つなのかも分かっておらずこの部分は闇につつまれているのが現状です。

そして桓帝~霊帝の間、おおよそ二世紀から三世紀にかけての頃に倭国が大いに乱れたとの記述、これまでも朝貢国があった事から争いはあったのでしょうが、この時期から本格的に戦乱の世の中へと突入していったのだと考えられます。この戦乱を倭国大乱と呼びます。

邪馬台国

またまた中国の歴史書『魏志倭人伝』によると、倭国大乱が数十年続いた頃、争いに疲れた国々は一人の王を建てて戦争を終結させる取り決めをまとめた様です。

そしてその王に選ばれたのが邪馬台国卑弥呼です。

彼女が即位した事で邪馬台国を中心とした数十の小国家による連合政権が誕生しおよそ一世紀程続いた大乱は終結したのでした。

『魏志倭人伝』ではさらに卑弥呼が中国の王朝『魏』に宛てて朝貢した事が記されており、見返りとして【親魏倭王】の称号を与えられています。
魏と冊封体制を築く事で邪馬台国の連合政権をより強固にする狙いがあったのでしょう。

というのも当時、邪馬台国連合は連合に加わらない狗奴国くなこくと戦争状態にあったからです。
この狗奴国との戦争中に卑弥呼は息を引き取ります。

女王が不在となり邪馬台国連合は不安定化し分裂の危機に陥りますが、新たに二代目の女王壱与いよを建てる事で連合は再び結束したとの記述で魏志倭人伝は終了しています。

邪馬台国はどこにあった?

『魏志倭人伝』には邪馬台国までのルートが記されているのですが、そのルート通りに辿るとどこでもない海の中に放り出されてしまいます。
よってこのルートを多少の解釈を加えて読み直すと日本の九州、または近畿地方に辿り着きます。
この事から邪馬台国九州説と近畿説が江戸時代から長年議論されていますが未だに決着はつきません、これは邪馬台国論争と言われています。

まとめ

弥生時代は稲作技術の伝来に端を発し、階級や村や国といった共同体の発生
そして資源を巡る戦乱の時代へ突入し邪馬台国による連合政権の獲得までを取り扱いました。

我が国の歴史ではこの後、大和朝廷が樹立しますが邪馬台国と大和朝廷の関係は未だ解明されていません。
これは邪馬台国論争にも関係してくるかなり複雑な問題ですが、解明にはもう少し歴史学や考古学の進展を待つ必要があるでしょう。

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