纏向遺跡

史跡

纏向遺跡について

今回紹介するのは纏向遺跡。
奈良県桜井市にある古墳遺跡群です。

その規模は東西約2km、南北1.5kmにも及ぶ巨大遺跡で、特に三輪山の麓に位置している前方後円墳が複数ある事から天皇家に強い関連のある古墳群だとされており、空白の4世紀と呼ばれる300年代に広がったとされるヤマト政権の中心地だと考えられている場所で、
古代日本の幕開けを象徴する特別な場所です。
今から約1700年前、3世紀後半から4世紀前半(250年頃~330年頃?)にかけて、この地はヤマト政権の中枢として機能し、日本列島の歴史に新たな時代を刻みました。
広大な土地には計画的に建設された建物や道路、祭祀の場が整い、まるで当時の都市を彷彿とさせる景色が広がります。纏向遺跡周辺に点在する箸墓古墳をはじめとする30基以上の古墳群は、その権力と信仰の象徴です。

歴史

弥生時代から大和時代(古墳時代)へ

弥生時代、大陸からの農耕等の技術や文化がもたらされました。
農耕によって富の備蓄が可能となると、自然と貧富の差が生まれる事になります。
その結果、弥生時代末期には村ごとに富を蓄えることに成功し権力を持った首長等が現れ、それらはやがてクニとしてまとまり豪族と呼ばれる一族が誕生していきます。
その後、首長が権力を強化し、巨大な墳墓(古墳)を築く文化が始まりました。大和時代(古墳時代)の幕開けです。

さてこの大和時代ですが、ここまで三世紀後半(250年頃~)と曖昧な言い方をして来ましたが、これには訳があるんですね。
この時代の日本にはまだ文字が無く、なんと文字による資料が存在しません。
つまりこの時代を知るには考古学や中国や朝鮮の資料と日本書紀や古事記を照らし合わせて推測するしかなく、その結果おそらく二世紀から三世紀にかけての遺跡だろうという結論になっている訳です。

纏向は大和の中心地?

大和時代はヤマト政権が日本を統治していた時代です。
ヤマト政権では権力者はその権力を誇示する為に巨大なお墓を建造するのがこの時代の流行りでした。
巨大なお墓とは皆さんご存じの古墳の事ですね。前方後円墳をはじめとする様々な古墳が生まれました。


この古墳が大和を中心として全国に広がっている事から大和政権は全国を支配していたと考えらており、その中心地となったのが纏向であると考えられているのです。

纏向は三輪山の麓に位置する場所で天皇家が本拠地としていた土地でもあります。
この周辺には90m級の巨大な前方後円墳が複数存在し、考古学の調査から最古レベルの前方後円墳だと確認されているのです。
つまり大和の王であった天皇家の作り出した前方後円墳が全国へ広がり大和国を中心としたヤマト政権が誕生。
そしてこの時代の各地の様々な物品が纏向から出土し、巨大な建物跡も見つかっている事から纏向はヤマト政権初期の中心地であったと考えられているのです。

纏向遺跡の古墳群

ここからは纏向遺跡にある古墳をいくつか抜粋して紹介しましょう。

箸墓古墳

初めに紹介するのは纏向遺跡を代表する箸墓古墳。
纏向遺跡最大の古墳で知名度も抜群。
とても綺麗な前方後円墳の形をしており正に「THE古墳」と言える存在ですね。

大和時代のかなり初期に作られたモノだと判明しており、その規模は全長280Mと当時の土木技術から考えてもかなり巨大な古墳であり相当の技術と労力をつぎ込んで建造されたものであると考えられ、その規模や歴史的意義から、「古代日本の象徴」とも言えるとても重要な古墳なのです。

そんな箸墓古墳ですが実は誰のお墓かはまだ分かっていません。
宮内庁には「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓」として管理されているため、一応彼女のお墓と言う事になっていますが発掘調査が許可されていない為定かではありません。

また一部では邪馬台国の卑弥呼のお墓説も有力視されています。箸墓古墳は卑弥呼の治世とされる3世紀後半の築造と時期が一致するためですね。
ただこの説では「邪馬台国は纏向であった」という邪馬台国論争に発展する為また別の問題な気もします。

纒向石塚古墳

こちらは箸墓古墳と同じく古墳時代初期に築かれた前方後円墳の一つです。
纏向遺跡における重要な古墳群の一つであり、ヤマト政権の初期支配者層に関連すると考えられています。

全長は120mで二段構造となっており高さは10m、土器や鉄器などこの時代の初期特有の特徴を持つ土器が多く出土しています。

こちらの古墳は誰が埋葬されているかは特定出来ていませんが、纏向の中心に近い場所にある事や祭儀等が発掘されている事から大和政権のかなりの有力者であったのではないかと推測されます。

ホケノ山古墳

こちらの古墳も例にもれず前方後円墳となっており、古墳時代の始まりを象徴する重要な遺跡です。
3世紀中頃に築造されたと推定され、ヤマト政権の成立過程や初期国家形成を考える上で欠かせない遺構とされています。

全長80mで高さは7mで先の二つほどの大きさはありません。
しかしこの古墳実は建造時期がかなり速いという特徴があり、前方後円墳の原型となったかなり初期段階の古墳ではないかと言われています。まだ前方後円墳の建造技術が定着していない頃の試行錯誤の跡なのかも知れませんね。

こちらの古墳も誰が埋葬されているかは不明ですが、纏向石塚古墳と同じく出土品から儀式的な要素を強く感じ、大和政権の有力者の墓であろうと思われます。

纒向勝山古墳

纏向の勝山地区にある前方後円墳。現在は古墳が削れてしまい墳丘墓の様な形をしています。

全長は115mで高さ7mの大きな古墳です。
これまでの古墳と異なり木製の土器が多く出土しています。

やはり埋葬者は誰なのか判明していませんがその規模から大和政権の有力者であろうと考えられています。

アクセス

項目詳細
住所奈良県桜井市大字纒向
アクセス
電車JR桜井線「巻向駅」から徒歩約10分
西名阪自動車道「天理IC」から国道169号線を経由して約20分
バス桜井市内のコミュニティバス「纒向公民館前」停留所から徒歩約5分
駐車場近隣に無料・有料の駐車場あり(遺跡周辺に案内看板あり)

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